聖イグナティイ・ブリャンチャニーノフ 「己の十字架とハリストスの十字架」 も 主はその弟子に言われた。「人、若し我に従わんと欲せば、己を捨て、己の十字架を 負いて、我に従え」(マトフェイ16:24)。 「己の十字架」とは、何を意味しているのか。この「己の十字架」、すなわち人がそ れぞれ背負う十字架は、なぜ「ハリストスの十字架」とも呼ばれるのか。 「己の十字架」とは、人がそれぞれ背負う人生の患難・困苦である。 「己の十字架」とは、肉体を精神に従わせる斎や祈祷等、信者としての修行である。 各人は自分の力に見合った修行をせねばならず、修行の種類と量は人それぞれである。 「己の十字架」とは、人がそれぞれ持っている罪の病、すなわち諸慾である。生まれ つき持っている慾があれば、人生の途上で感染する慾もある。 「ハリストスの十字架」とは、ハリストスの教えである(聖詠118:38、120)。 「己の十字架」は、いかに重くとも、ハリストスに従うことによって「ハリストスの 十字架」に変容しなければ、虚しく、不毛なままである。 「己の十字架」がハリストスの弟子にとって「ハリストスの十字架」となるのは、ハ リストスの弟子には確信があるからである。その確信とは、すなわちハリストスが常に 見守っていてくださること、ハリストス教の必要条件として患難を味わうことをハリス トスが容認し、その容認がなければいかなる患難にも遭うことがないこと、患難によっ あずか てハリスティアニンがハリストスに結合し、この世における主の運命に 与 り、故に天 における主の運命にも与る者となることを堅く信じて疑わないものである。 「己の十字架」が主の弟子にとって「ハリストスの十字架」となるのは、ハリストス の真の弟子が主の誡めを行なうことを人生の唯一の目的としているからである。その至 聖なる誡めはハリストスの弟子にとって十字架となり、主の弟子は絶えず己の「古き 人」を「その情及び慾と共に」(ガラティヤ書5:24)その十字架につける。 いのち 上記のことから、なぜ、十字架を受け入れるためには、先ず己の生命を失うに至るま で1己を捨てなければならないかが明らかになる。 わが陥罪した本性が深く罪を患っており、神の言葉は罪を陥罪状態の人間の生命とさ え呼んでいる。 十字架を背負うためには、先ず多種多様な肉体の欲望を断ち、生命を維持するために 必要なもののみを肉体に与えるようにしなければならない。また、己の義を神の前で全 くの不義と認め、己の知恵を全くの無知と見なし、且つまた、信仰をもって心の底から 1 「己の生命を救わんと欲する者は、之を喪わん、我の為に己の生命を喪わん者は、之を得ん」(マトフ ェイ16:25)。 一身を神に捧げ、絶えず福音書を学び、己の意志を捨てなければならない。 このように己を捨てた者は、己の十字架を受け入れることができる。そうした者はふ りかかろうとする患難を恐れたり、それに戸惑ったりすることなく、何があっても神に 服従し、己の弱さを力づけていただくよう神の佑けを呼び、勇敢に且つ鷹揚に患難に耐 える心の準備をし、それによってハリストスの受難に与る者となり、知と心とによって ばかりでなく、行いと人生そのものによってハリストスを奥密に受け認めるに達成する ことを望んでいる。 十字架は、「己の十字架」の域に留まっている限り、人にとって重荷となっている。 けだ 「ハリストスの十字架」に変容すれば、十字架は信じられないほど軽くなる。「蓋し我 くびき やす に かろ が 軛 は易く、我が任は軽し」(マトフェイ12:30)と主は言われた。 ハリストスの弟子は、己が神の摂理によって天与された患難に値すると認めてはじめ て、十字架を背負ったといえる。 ハリストスの弟子は、主に在って育ち、救いを得るためには、何か別の患難ではなく、 この自分が天与された患難こそが必要であると認めてはじめて、己の十字架を正しく背 負っているといえる。 忍耐強く己の十字架を背負うことは、己の罪を正しく観、自覚することである。この 自覚には、何の自己欺瞞もない。だが、罪人を自認すると同時に己の十字架から不平を 言ったりする者は表面的に罪を認めることによって己を欺くだけであることは明らか である。 忍耐強く己の十字架を背負うことは真の悔改である。 十字架にかかっている者よ、主の裁定が正しいことを主の前で受け認めよ。己を罪し、 神の裁きを義とせよ。そうすれば、罪の赦しを得るであろう。 十字架にかかっている者よ、ハリストスを知れ。そうすれば、汝のために天国の門が 開かれるであろう。 十字架にかかっていながら、主を讃美し、不服・不平の思いを退け、罪悪および涜神 としてそれらを悉く捨てよ。 十字架にかかっていながら、この上なく貴重な賜として汝の十字架を主に感謝し、汝 の苦難によってハリストスに倣う、貴重な運命を主に感謝せよ。 十字架にかかっていながら、神学を究めよ。十字架は、真の神学が学べる唯一の真の 学校であり、真の神学の宝蔵および宝座だからである。十字架以外には、ハリストスを 知る生きた知識を得ることができない。 ハリスティアニンとしての完全さを人徳において探求するなかれ。その完全さは人徳 にはなく、ハリストスの十字架に秘められているのである(克肖なるマルコ苦行者「霊 法論」第31章)。 ハリストスの弟子が自らの罪を認め、己の罪悪が処罰を必要としていることを自覚し、 その自覚を行いにつなげ、ハリストスに感謝しハリストスを讃美しつつ十字架を背負う 場合、己の十字架はハリストスの十字架に変容する。讃美と感謝は苦難者の心に霊的な 慰めを生ぜしめ、悟り難き不朽の喜びを溢れさせる泉となり、その喜びは恩寵的に心に 湧き出て魂を潤し、身体までも潤す。 ハリストスの十字架は、外面上のみ、肉的な眼にとっては、厳しい苦行の場のように 見える。ハリストスの弟子であり主に従う者にとっては、それは至高の霊的喜楽の場で ある。その喜楽は甚だ大いなるものであり、患難による苦しみが喜楽で完全にかき消さ れ、ハリストスに従う者は激しい苦痛にありながら喜楽しか感じないのである(12段 聖詠、聖エウストラティイの祝文)。 若き聖致命者ティモフェイが残虐に苦しめられながら、その妻マウラにも殉教を勧め た。若きマウラは夫に「わが兄弟よ、恐ろしい拷問と怒り狂った君主を見たら、若年の 私は恐れて、忍耐しきれなくなるのではないかと心配している」と言った。そうすると、 聖致命者は彼女に言った。「我が主イイスス・ハリストスを頼みとすればよい。そうす れば、苦しみは君の身体に注がれる聖油となり、苦痛を和らげる露となる」と2。 十字架は、古世より全ての聖者の力および光栄である。 十字架は諸慾を癒し、悪鬼を滅ぼす。 己の十字架をハリストスの十字架に変容せしめず、己の十字架から神の摂理を罵った り不平を言ったりし、希望を捨て、絶望する者にとって、十字架は死をもたらすもので ある。己の罪を認めず悔い改めない罪人は、忍耐したくないから真の命、神に在る命を 失い、その十字架上に永遠の死で死んでしまう。そして、やがて十字架から降ろされる 時が来ると、その魂は永遠の墓、すなわち地獄の牢に落とされる。 ハリストスの十字架にかかっているハリストスの弟子は、その十字架によって地上よ り挙げられる。その十字架にかかっている主の弟子は、天上のことを思い、知と心とに よって天に住い、我が主イイスス・ハリストスに在る聖神の奥義を観る。 「人、若し我に従わんと欲せば、己を捨て、己の十字架を負いて、我に従え」と主は 言われた。アミン。 2 聖人伝、5月3日(5月16日)。
© Copyright 2024 ExpyDoc