文化人類学者崔吉城がみた北朝鮮

東亜大学東アジア文化研究所第一回講演会
崔吉城が見た北朝鮮
2012.5.1.9
東亜大学 13 号館 202 教室
崔吉城
<禁断の国家>
なぜ今、北朝鮮か。私の生まれ故郷は 38 度線に近くにあり、激しい朝鮮戦争の後、休戦
線で北朝鮮が多少遠くはなったが板門店はそれほど遠くない。我が村にはまだ帰還してい
ない離散家族がいる。
私は朝鮮半島が南北に分断されたことによる南北対置、敵対する緊張感、そして閉鎖さ
れた「閉ざされた国」(forbidden country)となった、現代の鎖国である北朝鮮を覗くよ
うな板門店観光が日本人に楽しまれる本質を探り続けた。私は板門店観光、展望台観光、
トラ山(最終点の駅)とトンネル観光などに参加し、閉鎖された北朝鮮を覗く観光に参与
調査をした。
2001~3 年に 3 回訪問して印象などを書いたが映像を見せながら講演するのは初めてある。
既にテレビ視聴やマスコミ報道によって一般的によく知られている「禁断の国家」に関心
を持っていた。ロシアと中国とを境界にしている豆満江と中国の長白山に登って、朝鮮半
島の最高 2774 メートルの白頭山頂から北朝鮮を眺めたがやはり北朝鮮の中を歩いてみたい
強い希望があった。広島朝鮮総連の委員長の配慮で「在日同胞祖国訪問団」の一員として
訪問することができた。しかしその後私には入国が許可されなかった。まだ禁断の祖国で
ある。
その後 2 回申請したが朝鮮総連本部から許可が出なかった。まだ私には「禁止された国
家、フォービデンカントリー(forbidden country)」である。
<ソウルから板門店へ>
2003 年 3 月にはソウルから韓国観光名所一番といわれる板門店軍事停戦委員会場を観光
した。板門店あたりは自然の景色や優れた文化遺産があるわけでもないのに観光名所とな
っている。38 度線や休戦線に流れる漢灘江や臨津江は子供の時から親しみのあるなじみの
名称である。ソウルから板門店へ向かうバスの中ではガイドから 38 度線から休戦線にいた
る説明に続き、服装規定があり、袖なしのTシャツなどの服装、作業服、あらゆる種類の
ジーンズ、半ズボン、ミニスカート、背中が見えるドレス、へその見える女性用の衣類袖
なし上着、肌が透けて見える衣類、シャワー用のスリッパなどは駄目、カメラは絶対出さ
ないようになど、長く注意事項が述べられる。
車窓からは鉄網、立ち入り禁止、STOP の表示板が繰り返し見える。軍事分界線を南と北
に2kmずつの非武装地帯 DMZ の中に板門店はあり、共同警備区域(JSA)がある。危
険にさらされるということで宣誓に署名し、軍隊用の食堂で食事をし、帰らざる橋の付近
では斧事件の説明があった。それは金日成将軍が植えたポプラの木を米軍が1976年8
月18日に剪定したので北朝鮮の軍人が怒って米軍人を殺害した恐ろしい事件である。
<「祖国訪問」>2000 年
ソウルから北へ板門店訪問した 2 週間後に元山港着、平壌へ、そして板門店へ向かった。
平壌市(ピョンヤンシ)の通り、高層アパート、
「大同江は我が国で 5 番目の長い河」プ
エルロブホ事件に拉致された船舶、道端に人々が歩いている、市内に近接して電線、電車、
陸橋、地下道が見える、人民大学習堂などが遠く見える、地下道入口、消防車、子供たち
が走って行く、煙が出る、人々の服の色はほとんど同じ、工事場から煙が出る、上空から
見下ろし、建物、キム・イルソン生家を訪ねる在日朝鮮人および北朝鮮の人々、キム・イ
ルソンの先祖の墓、キム・イルソン生家の温室には草花がある 案内者が写真説明、キム・
イルソンが 20 年ぶりにおばあさんに会う場面、北朝鮮の人らが歩いてくる、箒で掃除する
女性、烈士陵で女性ガイドが説明する、写真が彫られた墓、新婚さん、ロシアから来た舞
踊団長にインタビュー、平壌(ピョンヤン)外国語大学でロシア語習ったガイド、戦争記
念野外展示場、戦争記念公園、彫刻を見る北朝鮮の人々、手信号で交通整理、劇場には「血
の海」公演の広告、民俗博物館に向けて歩いている、カラー写真を撮る露天商、復興駅で
地下鉄に乗る、地下鉄駅広場にネオンと絵、車掌、労働新聞の掲示板、韓国では地下鉄を
防空壕と非難する、唐辛子を干す、凱旋門を通過、キム・イルソン大学の正門、キム・イ
ルソン総合大学の建物、自転車留置場、中学校の女子学生が歌う、遠くからお父さんとと
もに貨物車に乗ってきたという。 芸術学教で歌を勉強をしている、「高麗航空」機内で韓
国人技術者とインタビュー<朝鮮はきれい>、新婚さんなどを見た。
<敵対関係の観光名所の板門店へ>
板門店は日本人の観光名所であることは日本に移り住むことによってはじめて知った。
板門店あたりは自然の景色や優れた文化遺産がないにもかかわらず、観光名所となってい
ることに以前から私は深い関心をよせていた。
朝出勤のためにバンドが演奏される、女性が子供を背負って行く、演奏、食堂の広告、
車中で見る平壌の道路風景、板門店(パンムンジョム)
、開城コチュジャン、人民軍の軍人
が説明、<非武装地帯なのに南側の韓国では武装している>と非難、休戦協定場所に保管
された証書、会談場所、韓国の憲兵などが見える、南北朝鮮が共同で利用する会議場、北
朝鮮からみる米軍と韓国軍、韓国の憲兵が望遠鏡で北側を見る場面、開城に走って行く、
開城の高麗博物館の女性は<ソウルに行ってみたい>、と言っていた。170 キロの走行中対向
車はまったくなかった。ガイドは民族統一への願い、鄭周永氏の南北交流の話を主にしm
た。写真を撮るのも自由であった。非武装区域に入るときは北朝鮮の軍人によってガイド
された。彼は非武装区域で南朝鮮側は武装化していると非難したこと以外には敵対感は感
じられなかった。先々週南から北を眺めた時とはまったく反対で北から南を眺めることは
特殊な体験のように感じた。同じ青い会議場へ行く道はかなり異なった。その場に立って
民族分断を痛感し、南北の態度を対照的に感じた。一番対照的なものは北朝鮮側では民族
統一への熱意と素直な案内に対して、南側では常に危機感が感じられた。
<日帝過去清算の会参加>2002 年 5 月
日本の過去清算のための集い、従軍慰安婦らが証言、説明書発表、平壌(ピョンヤン)
で市内トロイ電車、アリラン祝祭、入口、舞踊、日帝時代を再現、軍人ら、キム・イルソ
ン肖像、空中落下、<外勢が持ってきた私たちの民族の分断>分かれた軍事境界線、キリス
ト教会、牧師の説教、賛美歌、アーメン、正午の平壌(ピョンヤン)市内に中心街に車が
一台も目に入ってこない。
<金剛山へ>
ソウルから巨津港のそばの金鋼山コンドミニウムに 着いた。そこで北朝鮮側出入国事務
所で入国手続きを受ける。審査台に立った。北朝鮮審査員は私のパスポートを見て日本に
対して質問を浴びせた。その中の一つがイラクに派兵したのかということであった。私は
医療関係者だけが選抜されて行ったと乏しいニュースを言った。さらにイランに対しては
分かるかと聞かれて分からないと答えた。日本に対して関心が大きく「日本が良いか」な
どの質問があった。私は録音機の持ち込みができなかったことを北朝鮮の審査員にいうと
彼らは一斉に南側が北側を悪く宣伝するつもりでそうしたであろうという。
広い岩にはほとんど例外なく金正日、金日成の赤い色の宣伝文句が刻まれている。食事
中でとなりに座っていた成氏から岩に刻まれた関東軍司令官の名前を見つけたというのを
聞いて、それを確かめることにした。私たちは車の速度を緩めて岩の名前を捜した。途中
成氏は大声を出した。やはりあった。写真を撮ることができない所であるのみならず通り
や車の速度によって目で確認するだけだった。「関東軍司令 李〇〇」という文字を読むこ
とができた。
上の展望台まで歩きながら北朝鮮ガイドと話をした。その青年は元々ここで生まれて元
山にある済大学で環境学を専攻してこちらに配置されて来てから 4 年にもなる。大学で自
然に植物に関心を持つようになったという。彼は主に「私がなぜ日本という外国で生活す
るようになったか」、「どうして日本へ行ったか」、「共和国をどう思うか」など私に話
を聞きたがる。日本人は好きだが日本国が良くないとも行ってい行っていた。