地図と見学会資料

浪速の名橋・50選「大阪中心部の地図」
file:///D:/OSAKA/osaka1.htm
赤丸をクリックすると橋の解説が現れます。
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之
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新
鴫
野
橋
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2016/05/16 22:41
浪速の名橋・50選「桜宮橋」
file:///D:/OSAKA/html/sakurano.htm
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桜宮橋は、昭和5年9月、第一次都市計画事業の一環として、現国道1号が、大川(旧淀川)を渡る位
置に架けられた。最大支間は104メートルを誇り、戦前では日本最大のアーチ橋である。
桜宮の地名は、大川の東岸にある神社の名に発している。桜宮の周辺は、江戸時代から桜の名所と
して有名で、境内ばかりでなく大川の両岸、川崎から長柄の近くまで桜が続いていた。花見の頃には、
境内の前から対岸の川崎の浜に渡船が通じ”桜の渡”と呼ばれた。また、明治になって西岸に造幣局が
造られ、八重桜の並木が整備されて、明治16年から”通り抜け”が行われるようになった。
当地には、明治35年10月、桜宮橋の上流に橋が架けられ、澱川橋(淀川橋)と呼ばれたが、昭和5
年の桜宮橋の完成により姿を消した。
桜宮橋の形式は、アーチの中央にもヒンジがある3ヒンジアーチで、橋脚が多少沈んだり移動したりし
ても、アーチに無理な力がかからない利点をもち、架橋地点の地盤が悪いことに配慮して採用された。
この構造では、アーチ部材が中間で大きくなるため、橋に重厚な印象を与えている。また、アーチの袂
に橋頭堡ともいうべき塔が建てられ、橋の景観を高めている。
「銀橋」と愛称されるこの橋は、大阪を代表する橋の一つであり、また、大阪城天守閣を背景にみるこ
の橋は、大阪を代表する風景の一つでもある。桜の頃は特に素晴らしい。
最寄り駅:JR環状線京橋駅
周辺の名所:毛馬桜之宮公園、藤田美術館
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2016/07/23 16:31
浪速の名橋・50選「川崎橋」
file:///D:/OSAKA/html/kawasaki.htm
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江戸時代この橋の周辺の状況は、大阪城京橋口から京街道や大和街道に通じており、対岸の川崎
(北区天満一丁目の一部)には幕府の役人の屋敷や藤堂藩他諸藩の蔵屋敷が建ち並んでおり、渡河
の必要性は高かったと思われる。古地図を見ると「川崎渡」と明記されており、元禄ごろにはこの渡しは
設置されていた。
明治10年になってこの地に橋が架けられたが、私設の橋で通行料一人三厘を徴収したことによって、
「ぜにとり橋」と呼ばれていたらしい。この橋も明治18年7月初めの大洪水によって下流の橋ともども流
失したが、以降再建されることはなかった。
現在の川崎橋は、中之島から千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として昭和53年に
架設された。形式は高い塔から多くのケーブルを出し、桁を吊った斜張橋というタイプの橋なので人目
を引いている。この橋は、技術的にすぐれ、景観を重要視した橋として、土木学会の賞を受けている。
この橋の近くでは消防の出初め式、造幣局桜の通り抜け、天神祭の船渡御などの行事が行われる
が、この時は橋の上は一等桟敷となる。さらに北区・都島区を結び、災害時の避難路としても重要であ
る。
最寄り駅:大阪地下鉄天満橋、京阪天満橋駅
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2016/07/23 16:31
浪速の名橋・50選「大坂橋」
file:///D:/OSAKA/html/oosaka.htm
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大正14年3月、東横堀川の浚渫中に、末吉橋と九之助橋の間の川底から「大坂橋 天正拾三年」
(1585)の銘が刻された擬宝珠(高さ60cm×外径35cm、重さ15kg)が発見された。しかし、この「大坂橋」
は過去のいずれの文献にも見あたらず、橋の所在・規模については、後にさまざまの議論が展開する
ことになる。
この立派な擬宝珠は、昭和6年に再建された大阪城天守閣に保存され、市民に公開されていた。しか
し、終戦後の昭和23年7月に、天守閣がアメリカ軍から大阪市に返還された時には、この擬宝珠は既
になくなっており、戦争の混乱時に行方不明になったようである。現在は、当時の写真と拓本が残されて
いるのみで、橋の所在と同様に幻の擬宝珠となってしまった。
幻の「大坂橋」の名前は、昭和48年大阪城公園と毛馬桜宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋として
390年ぶりに復活された。橋の主橋梁部は、橋長98.4m、幅員4.5mで、頬杖式ラーメン橋と呼ばれるユ
ニークな形式である。橋梁形式の選定に当たっては、大阪城を背景とし、公園と公園を結ぶにふさわし
い構造美を有するよう、景観との調和が十分に考慮された。
橋面には、カラータイルが貼られ、高木(ウバメカシ)と低木(サツキツツジ)が交互に植樹され、照明に
は蛍光水銀灯を配置するなど、橋面上の雰囲気作りに.配慮がなされている。なお、橋上には橋名由
来碑が設置されている。
最寄り駅:京阪本線 天満橋駅、地下鉄谷町線 天満橋駅
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2016/07/23 16:32
浪速の名橋・50選「京橋」
file:///D:/OSAKA/html/kyou.htm
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京橋は大阪城の北の玄関口に当たる重要な橋で、大阪城を起点として京都へ向かう京街道や野崎
まいりで有名な野崎街道を兼ねる大和街道の出発点となっていた。
現在の京橋は、第一次都市計画事業の橋梁改築事業の一つとして大正13年に架け換えられた橋
が、昭和5年にスタートした寝屋川の改修事業によって3径間の橋に手直しされたものである。そして昭
和55年にはその姿を一新された。戦時中に架設当時の高欄や照明が失われ、戦後になって取り付け
らたコンクリート製の高欄のいたみがひどく、その改修と合わせて、周辺の環境と調和するように美装
化がはかられた。美装化に当たっては、大阪城の歴史的な背景を新たに創造できるよう、外装全体は
石垣のモチーフでまとめられ、城郭を形成する石塁の力感ある構造が、橋の高欄・親柱に採用されて
いる。また、花崗岩製の高欄は歩く人に安らぎを与えるよう、植樹枡を兼ねた構造になっている。歩道
面には石畳調の擬石舗板が用いられ、橋上照明は太閤秀吉ゆかりの地にふさわしく千成びょうたんを
模した形となっている。
最寄り駅:京阪本線 天満橋駅、地下鉄谷町線 天満橋駅
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2016/07/23 16:32
浪速の名橋・50選「新鴫野橋」
file:///D:/OSAKA/html/shinshig.htm
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現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に、かつて鴫野橋という公儀橋があった。この橋は大坂城の城内に
あり、一般の人々が利用できない公の性格の強い橋であった。初めて架けられた時期は明確でない
が、豊臣時代の城絵図や冬の陣・夏の陣を描いた絵には見あたらず、この時期にはまだ架けられてい
なかったものと思われる。
鴫野橋は公儀橋12橋の中に数えられているが、江戸時代前期の規模は、橋長57.6m、幅員2.7mと、
他の高麗橋や天神橋などの公儀橋の幅員が8m近くあったのに比べると狭いものであった。明治に
なって弁天島の地が軍の用地となり、橋も陸軍の施設となったため、橋に関する詳細は伝えられていな
いが、この時期に鉄橋になった。その後の新鴫野橋は、橋長約55m、幅員8mの規模で、昭和10年3
月に完成したものと伝えられている。
近くの寝屋川には、地名から鴫野橋と命名された橋があるが、戦後、軍管理の橋が大阪市に引き継
がれる際に新鴫野橋と命名されたため、公儀橋の鴫野橋とは場所が入れ替わってしまった。近年の発
掘調査で発見された大阪城の石垣の配置からも、古い鴫野橋が現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に架
けられていたことが確認されている。
現在の橋は昭和63年に架け換えられたもので、擬宝珠高欄が付けられ、由来碑も整備されている。
最寄り駅:JR片町線 片町駅
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2016/07/23 16:33
浪速の名橋・50選「天満橋」
file:///D:/OSAKA/html/tenma.htm
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天満橋・天神橋・難波橋は江戸時代以来、大坂の町にとって最も重要で、最も親しまれてきた橋であ
る。当時としては最大級の橋で、この三橋は浪華の三大橋と呼ばれた。江戸時代には、ともに公儀橋
に指定され、幕府の直轄管理となっていた。大坂の市街地を南北に結ぶ三大橋は市民の生活にも密
接に関わる橋となり、都市発展に重要な役割をはたした。東西の町奉行所が、天満橋の南側にあり(の
ち西町奉行所は本町橋の東北詰へ移転)、谷町筋から東側には様々な役所があった。橋の北側には
役所の倉庫や町与力の屋敷があり、天満橋はこれらの役人の通勤経路や役所間の連絡にも利用され
たと考えられ、官の性格が非常に強い橋であったと言えよう。
明治になり、天満橋・天神橋はほぼ同じ経過で架け換えが行われた。明治18年7月初めの大洪水に
よって両橋とも流失し、その復旧事業として、両橋ともに鉄橋に架け換えられた。この鉄橋の主要部材
は天神橋と同じく、全てドイツ製であったが、鉄製の高欄、照明柱、橋名額は両橋とも国産品が用いら
れた。橋名額は現在も北詰の公園内に保存されている。
現在の天満橋は、昭和10年に重厚なゲルバー式鋼桁橋に架け換えられたものである。この桁の形
状に対して当時の担当者が「のびのびとした、鳥が翼を広げたような形」と表現したように、景観上バラ
ンスのよい桁橋である。
戦後、自動車交通の発達により天満橋は、交通上のネックになり、昭和45年高架橋が建設された。
在来の天満橋の上に重ねる型式とし、設計荷重としては旧市電の軌道敷部の荷重と高架橋のそれと
置き換えるように考えられた。さらに、平成元年に旧橋部が改装された。
最寄り駅:大阪地下鉄天満橋、京阪天満橋駅
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2016/07/23 16:33
浪速の名橋・50選「天神橋」
file:///D:/OSAKA/html/tenjin.htm
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天神橋は文禄3年(1594)に架けられたと伝えられ、当初は橋の名はなく新橋と呼ばれていたが、天満
天神社が管理することからしだいに天神橋と呼ばれるようになったという。 天神橋の架設は上町台地
と大坂の北部方面を結ぶという意味で大変重要なできごとであり、特に後に天満組となる現在の北区
の一部の発展を約束するものであった。
橋が地域を結びつける上でいかに重要な役割をはたしているかは、戦争の経過を追うとよくわかる。
大塩平八郎の乱の発生を知った幕府はいち早く三大橋をこわし、反乱軍をふせごうとした。ここでも大
坂を南北に結びつける橋の存在がクローズアップされている。 明治18年7月初めに大洪水により淀
川筋の橋は次々と流されたが、その直後に鉄橋化されることになり、天神橋には、ドイツからの輸入品
で長大スパンのボーストリングトラスが用いられた。
現在の天神橋は中之島の剣先に架けられ、昭和9年5月に完成したものである。低い軽快なアーチ
は剣先公園の風景によくマッチし、水都大阪の代表的な景観を形造っている。主要部の形式は三連の
鋼二ヒンジアーチで、両端にはコンクリートのアーチを置き、全体のデザインを引き締めている。
昭和62年、剣先側にらせん形のスロープが設けられると同時に美装化がなされ、遣唐使船の陶板ブ
ロックや天満宮所蔵の天神祭絵巻を模写した絵陶板が飾られている。
最寄り駅:大阪地下鉄北浜駅、天満橋、京阪北浜駅、天満橋駅
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2016/07/23 16:34
浪速の名橋・50選「難波橋」
file:///D:/OSAKA/html/naniwa.htm
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難波橋は江戸時代の初め、公儀橋となったが、その時期は天神橋と同じく、寛文元年(1661)のこと
といわれている。当時は中之島の先端が、難波橋の下流部にあったから橋は一本で架かっていた。そ
して難波橋の付近は絶好の行楽地で、夕涼み、舟遊び、花火見物等、難波橋の周辺つまり当時の中
之島の先端あたりはたいそう賑やかであった。
難波橋が鉄橋化されたのは明治9年で、橋の架け換えに合わせて中之島の先端が上流の方へ延長
されたことにより、橋は南北に分けられたが、この北側部分のみが鉄橋になったようである。
天満・天神両橋に比べて見劣りしていた難波橋が立派な姿になったのは、市電事業により、大正4年
に架橋されたときからである。以前の難波橋は現在の堺筋より一つ西側の筋に架かっていたが、市電
の第三期線として計画された堺筋線に移され、鋼製二ヒンジアーチの橋が架けられた。中之島公園と
一体となった都市景観の創造が図られ、非常に装飾的な下部工、市章を組み込んだ高欄、華麗な照
明灯、親柱上のライオン彫刻、さらに公園へ降りる広い石造りの階段など、最大限の意匠設計がなさ
れている。橋の四隈の親柱の上に阿と吽それぞれ二体の石造のライオン像が配されていることから『ラ
イオン橋』の愛称で市民に親しまれている。
最近、美装化工事が行われ、戦争中に撤収された照明灯の復元、御影石による歩道の改装がなされ
た。
最寄り駅:大阪地下鉄北浜駅、京阪北浜駅
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2016/07/23 16:34
浪速の名橋・50選「鉾流橋」
file:///D:/OSAKA/html/hokonaga.htm
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鉾流橋は比較的新しい橋である。天神祭の際行われる鉾流しの神事にちなむ橋名がつけられている
ため古い印象を受けるが、初めてこの地に橋が架けられたのは大正7年のこととされている。大正5年
に大阪控訴院が新築されており、大正7年には中央公会堂が、同10年に大阪市庁舎が完成するなど
周辺の整備が進められる中で、橋の需要が高まっていたものと思われる。天神祭の宵宮に神鉾を川に
流す行事、鉾流しの神事は現在も鉾流橋の北東側で行われている。
現在の橋は、昭和4年完成した。高欄、照明灯、親柱などは日本調のクラシックなデザインが採用さ
れたが、天神祭の船渡御が行われることを考慮したデザインであろう。
しかしその後、戦争中の金属供出などによって、これらの高欄、照明灯は撤去されたが、昭和55年
に美装化が行われ、中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道
など歩くことの楽しさが演出されている。
最寄り駅:大阪地下鉄淀屋橋駅、京阪淀屋橋駅
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2016/07/23 16:35
浪速の名橋・50選「水晶橋」
file:///D:/OSAKA/html/suishou.htm
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水晶橋はつい最近までは、正確に言えば橋ではなかった。この橋は本来は昭和4年に完成した堂島
川可動堰という、河川浄化を目的として建設されたゲートである。橋面の改装が行われたとき、さらに
多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられたので、現在は名実とも
に橋になっている。
この橋は以前から水晶橋と呼ばれていたが、その名の由来は今一つはっきりしない。橋上にある照
明灯が水面に映る様子が水晶のかがやきに似ているということから出た愛称であるとする説もある。ま
た、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという説もあってどちらとも決め難い。
水晶橋は、その姿形のゆえに大阪の人々に愛されている。プロ、アマを問わず、画題として選ぶ人が
多いのはその証拠である。 水晶橋の美しさの要因を考えてみると、第一には本体のアーチとその上
の九つの小アーチの組合わせの妙が挙げられる。重厚さの中にどこか軽やかさを感じさせる。昭和54
年には橋面の改装が行われ、ベンチ代わりの植枡も置かれている。また、ライトアップがなされ、中之
島の夜景の演出を行っている。
最寄り駅:大阪地下鉄淀屋橋駅、京阪淀屋橋駅
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2016/07/23 16:36
浪速の名橋・50選「大江橋」
file:///D:/OSAKA/html/ooe.htm
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大江橋は元禄年間、堂島開発に伴って新しく架けられた堂島川五橋の一つである。五橋にはそれぞ
れ古来より大坂に伝わる由緒ある橋の名前や歌枕として有名な地名などから、その名前が取られた。
大江橋は、「玉藻刈る 大江の浦の 浦風に つつじの花は 散りぬべらなり」(大伴家持)を始め、多く
の歌人が歌に詠んだ大江の地にちなんでその名前がつけられた。
江戸時代、大江橋の北詰の下流側には堂島米市場があり、日本の米の価格がここで決められた。堂
島新地が開発されたのに伴って、淀屋橋の南詰にあった米市が移されたものである。その後、米会所
は三カ所に増え、明治に至るまで繁盛した。
大江橋から大阪駅までがほぼ直線で結ばれるようになったのは明治35年に梅田新道が開通したと
きのことで、橋は明治43年、市電の開通に合わせて鉄橋となった。
現在の大江橋は、大阪市第一次都市計画事業の御堂筋建設に伴って架け換えられたものである。
大江橋と淀屋橋の設計に当たって、橋梁設計の分野では珍しいデザインの一般公募が行われた。一
等入選作は大阪の大谷龍雄氏のデザインで、原案では橋脚の上に橋頭堡とでもいうべき、石造りの塔
が画かれていた。実施設計ではこの塔に変わってバルコニーを設けるよう修正されている。
最寄り駅:大阪地下鉄淀屋橋駅、京阪淀屋橋駅
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2016/07/23 16:36
中之島ガーデンブリッジ
(参考)
(出典:大阪市建設局 HP)
堂島川の大江橋と渡辺橋の間に架けられている。歩行者専用の橋で、全日空ホテ
ルの前に階段があり、その横に堂島米市場跡記念碑がある。この橋は新しく、構
造も橋脚が端に寄せられ、片持ち梁の橋桁でクサビのような形状としている。橋の
上の幅員は広めになっており、くつろげる空間が確保されている。なお、本橋は浪
速の名橋 50 選に含まれていない。
橋長:77.5m、
幅員:20.0m、
形式:桁橋。完成:平成 2 年
浪速の名橋・50選「渡辺橋」
file:///D:/OSAKA/html/watanabe.htm
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渡辺という言葉は渡しのほとりを意味し、大阪の古地形から上町台地の北端部あたりを指したもので
あろう。また、平安時代にはこの水路と陸路の結節点を勢力範囲にした渡辺党という武士団があった。
そのころから渡辺橋の名は断片的に見られるが、その実態はさだかでない。また『太平記』には南北朝
時代に楠公父子が渡辺の橋をはさんで幕府軍と戦った記述がある。
江戸時代になり、堂島開発にともなって渡辺橋はほぼ現在の位置に架けられた。江戸期には大江橋
と渡辺橋の間の堂島の浜は、堂島米会所を中心として米仲買人の家が立ち並び、米の街といってもよ
いほどの盛況であった。
渡辺橋は、明治18年の洪水で流されたが、直後にイギリスから輸入された鉄製のラチスガーダーに
より復旧された。この橋がいち早く鉄橋化されたのはこの橋筋が大阪駅へ通じる重要路線であったた
めと思われる。
その後、市電事業で架け換えられ、次いで昭和2年には第一次都市計画事業によって架け換えられ
た。この橋は、本体が二ヒンジ鋼アーチ橋で、ネオルネッサンス様式の意匠が施された華麗な橋であっ
た。橋面だけでなく、下を行く船からの美観も重要視されていたことは注目される。戦後、地盤沈下によ
る高潮対策事業と地下鉄建設のため、昭和41年に鋼床版プレートガーダーに架け換えられた。また平
成3年には歩道部が改装され、ライトチューブを入れたステンレス製の高欄や現代的な親柱などの意
匠が採用されている。
最寄り駅:大阪地下鉄肥後橋駅
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2016/07/23 16:36
浪速の名橋・50選「玉江橋」
file:///D:/OSAKA/html/tamae.htm
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玉江橋は大江橋や渡辺橋と同様に、江戸時代初期の堂島開発によって架けられた橋である。この
時、古代大坂に架けられていたとされる堀江橋の名前で復活されたが、のち元禄時代の末には玉江橋
と変更されている。玉江の由来は、『中之島誌』によると、欽明朝のころ堀江で美しい玉が見つかり、堀
川戎神社の御神霊としたが、その場所を玉江と呼んだという縁起から命名したとされている。また、万
葉集で詠われている玉江(現在の高槻市の三島江の淀川畔)から名付けられたとする説も紹介されて
いる。
江戸時代、玉江橋の北には肥後藩、中津藩の蔵屋敷があり、南には久留米藩の蔵屋敷や理宝堂と
いう薬師堂があり、縁日には大層賑わった。
明治18年の大洪水で流失した後、一たん木橋で復旧されたが、明治42年の北の大火で類焼してい
る。その後、昭和4年に第一次都市計画事業によって近代的な3径間鋼ゲルバー桁に架け換えられ
た。昭和44年には高潮対策による嵩上とともに下流側に新橋が架けられ、拡幅された。また、平成3
年には改装工事が行われ、堂島川の常安橋とともに、現代的なアルミ製の高欄や照明灯、タイル舗装
が用いられている。
最寄り駅:JR大阪環状線福島駅
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2016/07/23 16:37
浪速の名橋・50選「昭和橋」
file:///D:/OSAKA/html/shouwa.htm
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木津川の分流点に昭和橋が架けられたのは昭和7年のことである。この路線は計画道路梅田九条
線(土佐堀通)に当たっており、市電路線でもあった。橋長は82.8m、幅員は25.5mで、主橋部は支
間長69mのタイドアーチになっている。
大きな橋体の重量を支える基礎には、軟弱地盤であることを考慮に入れ、長さ22~25勸潰の木杭
が、両側で千本以上も打ち込まれている。
昭和橋は土佐堀通りから川口へ斜めに渡るため、67度近い斜橋となっている。このため斜めになっ
たアーチ橋という大変設計の難しい構造となっている。電子計算機のなかった時代にこのような立体的
な構造を解析することは非常に労力がかかったものと想像される。宮本輝氏の『泥の河』は、この橋の
描写から物語が始まっている。
最寄り駅:地下鉄中央線阿波座駅
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2016/07/23 16:37
浪速の名橋・50選「木津川橋」
file:///D:/OSAKA/html/kidugawa.htm
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木津川橋は川口と江之子島を結ぶ橋として、慶応4年(1868)に架けられたと考えられる。新政府は同
年5月の開港にそなえて、五代友厚及び陸奥宗光を責任者として、川口運上所(税関)を開設するとと
もに、幕府から引き継いだ居留地の建設を促進することにした。これに伴って新しい橋も架設されたよ
うである。その後、明治9年9月に橋脚、高欄を鉄製とした橋に変わり、橋面の中央部を車馬道として区
割していたが、この橋が歩道と車道を分離した最初の例であった。
その後、市電の第三期線の事業によって、大正2年6月に立派なアーチ橋に架け換えられた。この橋
は意匠面でも多大な配慮が払われた。同じ路線の本町橋と同じデザインとされ、橋脚は花崗岩製で側
面にギリシャ建築に見られる石柱を模した装飾が施されていた。現在の橋は、昭和41年、高潮対策事
業の一環として架け換えられたものである。
最寄り駅:地下鉄中央線阿波座駅
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2016/07/23 16:37
浪速の名橋・50選「常安橋」
file:///D:/OSAKA/html/jouan.htm
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常安の名からすぐ思い浮かぶのは江戸時代初期の豪商淀屋常安のことである。「大阪市史」には「淀
屋は本姓岡本氏、元祖与三郎常安北浜十三人町に住し、材木売買を営み、元和偃武の後中之島を開
拓して之に居る。故に常安町・常安橋の名あり。」と書かれ、常安橋が淀屋常安の中之島開発に伴って
創架されたと受け取れる。しかし江戸時代前期の地図では同位置の橋の名を「田辺屋橋」としており、
古くはそう呼ばれていたらしい。
淀屋常安は中之島の開発を出願し、淀屋請所を整備した。元和5年(1619)ごろには形が整ったよう
で、その後、5代目辰五郎の代まで繁栄する。取り潰しののちも常安請所は常安町となり、常安の名は
長らく残ることになる。
江戸時代の中之島一帯は蔵屋敷が建ち並んでいた。常安町も同じで蔵屋敷出入の物資運搬のため
に橋が必要であった。そのため橋の維持管理はこれらの蔵屋敷を事実上運営していた名代、蔵元など
の有力商人の手でおこなわれていたものと思われる。
常安橋が近代的な橋に変わったのは第一次都市計画事業によってで、計画道路玉江橋筋線の延長
として、橋長69.9m、幅員11.4mの3径間ゲルバー式の鋼桁が架けられた。戦後になって下流側にほ
ぼ同じ幅の橋が新たに架けられている。
最寄り駅:地下鉄四ツ橋線肥後橋駅
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2016/07/23 16:38
浪速の名橋・50選「肥後橋」
file:///D:/OSAKA/html/higo.htm
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肥後橋の北詰めの中之島には肥後・熊本藩の蔵屋敷があり、このあたりを肥後島町といった。明暦3
年(1657)の「新板大坂之図」には肥後殿橋とあり、古くはこう呼ばれたこともあったようである。肥後藩
の蔵屋敷は元禄時代になって中之島西部の越中橋北詰へ移転したが、橋名と町名はそのまま残っ
た。
肥後橋が渡辺橋の通りに移ったのは明治21年に鉄橋化されたときからである。18年の洪水で流失
した後、渡辺橋と共に鉄橋で架けられた。最初の鉄橋は中路の桁橋で、桁によって歩車道が分離され
る形になっていた。肥後・渡辺橋の通りは明治7年にすでに造られていた大阪駅へのメインストリートで
あったため、早く鉄橋化されたものと思われる。
大正15年に第一次都市計画事業によって完成した橋は、中央部がスパン27.0mの鋼アーチよりな
り、両側に橋台兼用のコンクリートアーチがあった。意匠の様式はスパニッシュルネッサンス式と呼ば
れ、河川上の橋脚の位置に豪華な飾塔を立て、非常に華やかで、かつ重厚な作りの橋であった。
この橋も戦後になって四ツ橋線の地下鉄3号線を通す工事に伴って架け換えられた。円盤状の支柱
をもつユニークな高欄をもっていたが、平成6年に橋面と高欄部の改装が行われ、より華やかなデザイ
ンのものになった。
最寄り駅:地下鉄四ツ橋線肥後橋駅
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2016/07/23 16:38
浪速の名橋・50選「錦橋」
file:///D:/OSAKA/html/nishiki.htm
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錦橋という名前はなじみが薄いが、これは朝日フェスティバルホールの南側にある土佐堀川可動堰
の橋の部分を指す名称で、昭和60年5月、橋面の美装化整備が行われた際に新しく名付けられたも
のである。
この可動堰は橋長約55mで、中央の2径間は支間約15mの鉄筋コンクリートのアーチを主構とし、
両側には階段と一体構造になったコンクリートアーチが用いられている。橋の上部は建設当時から幅
員10.5mの歩行者専用橋として利用されてきた。建設後50数年をへて、傷みやよごれが目立ち、橋
の姿も橋面も当時の美しさが失われてきたため、昭和60年に本体の補修と橋面の整備が行われた。
大阪の橋は古い歴史をもち市民の愛着も深く、橋をテーマにした絵などの作品も多く残っているが、
それらをまとまった形で観ることのできる場所が少ないため、錦橋の改装にあたっては、大阪のシンボ
ルにもなっている橋をより深く知ってもらえるよう橋上を橋のギャラリーにすることにした。
植樹の壁面を斜めにし、縦1.3m、横2.9mの展示スペースをつくり、その中に、江戸末期から明治初
期に画かれた大阪の橋をテーマにした錦絵をタイルに焼きつけたものを展示している。
最寄り駅:地下鉄四ツ橋線肥後橋駅
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2016/07/23 16:38
浪速の名橋・50選「淀屋橋」
file:///D:/OSAKA/html/yodoya.htm
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淀屋橋は江戸時代初期に活躍した豪商淀屋によって架けられたと伝えられるが、確かなことはわか
らない。淀屋は宝永2年(1705)に突然取りつぶしになるが、橋は連綿として今日に至っている。
大阪市でおこなった橋に関する意識調査によると、大阪市民が最も魅力を感じている橋は淀屋橋と
なっている。その票数も群をぬいて高い。
淀屋橋の人気が高い理由を考えてみると、(1)橋のデザインが優れている。(2)周辺の環境と橋がよ
く調和している。(3)古い歴史がある。(4)利用する機会が多い。(5)駅名などに使われ、なじみが深
い。などが考えられる。
現在の淀屋橋は、第一次都市計画事業で架けられたが、デザインの懸賞募集によって大変ユニーク
ですぐれた形式が採用されており、それが周辺の雰囲気によく調和している。また淀屋橋は大阪で最も
多くの人に利用されている橋である。御堂筋を一日に走る車は6万台を越え、また歩いて渡る人は7万
人を越えている。その他、地下鉄や京阪電車の淀屋橋駅で乗り降りする人は20万人にもなり、橋の名
前を常に聞くことになる。このように橋が身近であることが愛着をもつ大きな要因なのであろう。
最寄り駅:地下鉄御堂筋線淀屋橋駅、京阪電車淀屋橋駅
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2016/07/23 16:39
浪速の名橋・50選「栴檀木橋」
file:///D:/OSAKA/html/sendanno.htm
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江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が建てられ、両岸の連絡用として土佐掘川には江戸時代初期
から多くの橋が架けられていた。栴檀木橋もそうした橋の一つであった。橋名の由来は『摂津名所図
会』ではこの橋筋に栴檀ノ木の大木があったためとしているが、詳らかではない。江戸時代の絵地図を
見るとほとんどのものにこの橋が画かれており、洪水などで流失したわずかな期間を除いて、ほぼ全
期間存続していたと考えられる。
明治になっても木橋のままであった栴檀木橋は明治18年の大洪水で流失してしまう。しばらくの間、
橋は再建されず、再び架けられたのは大正3年のこととされる。これは明治37年に、大阪府立図書館
が建てられ、明治末には大阪市庁舎の建設が決定されるなど、橋が再び必要となっていたからと思わ
れる。
その後、昭和10年に架け換えられた。桁は高さが約1 の等高でシンプルな美しさを強調した設計で
ある。このシンプルな構造美を当時の設計者は理想としていたようである。 昭和60年9月、新しい橋
に架け換えられたが、旧橋のイメージを大切にしながら橋面などは府立図書館や中央公会堂など、背
景にある歴史的建築物との調和を考えてデザインされた。橋詰に由来碑や大正時代の親柱、先代の
橋の橋名板やセンダンの木のリレーフなどが展示され、橋の歴史が一目でわかるようになっている。
最寄り駅:大阪地下鉄淀屋橋駅、京阪淀屋橋駅
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2016/07/23 16:39
浪速の名橋・50選「葭屋橋」
file:///D:/OSAKA/html/yoshiya.htm
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東横堀川の北端、大川からの分流点に架けられた葭屋橋は、俗に築地と呼ばれた蟹島遊廓への通
路として設けられたものである。この遊廓は天明4年(1784)、葭屋庄七らによって開発されたもので、橋
も天明年間に架設されたと考えられる。蟹島の地は大川の眺望が非常によく、料理屋、旅館などが建
てられ発展した。船場の中心に近かったことから、大店の旦那衆の遊び場でもあり、夏の大阪の一大
ページェント=天神祭りの船渡御を見るには格好の場であった。
葭屋橋の架橋地点は通船の数が多いうえに、水流が複雑であるため、橋脚へ船が衝突する事故が
多かったようである。また、大川の洪水時に、度々被害を受けたことから、架け換えにあたっては種々
の技術的な工夫がなされた。明治初年に架けられた葭屋橋は当時としては大変珍しい斜張橋の原理
を用いたもので、大変評判になったようである。
葭屋橋の通り(府道石切大阪線)が現在のように広くなったのは市電敷設事業によってである。北浜
の交差点から天満橋の南詰までの市電は明治44年10月に開通しているが、橋はその直前の7月に
完成した。一方、蟹島と呼ばれた料理屋街は道によってへだてられた形となり、しだいにさびれていっ
た。なお現在の橋は昭和41年に架け換えられたもので、2径間の合成桁が採用されている。
最寄り駅:地下鉄堺筋線北浜駅
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2016/07/23 16:40
浪速の名橋・50選「今橋」
file:///D:/OSAKA/html/ima.htm
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大阪の陣のことを表した絵図にこの橋の名が記されていることから、豊臣時代には既に存在したと考
えられる。
江戸時代には、橋の西側に平野屋五兵衛、天王寺屋五兵衛など大物両替商が軒を並べ、大阪の金
融の中心地であった。また北浜には寛保3年(1743)金相場会所が設けられ、明治11年(1878)証券取
引所が設立されるまで、金銀銅三貨の取引がこの地で行われた。元禄の頃の資料に、橋長75.8m、幅
員5.5mと記されており、町橋としては規模の大きなものであった。橋のたもとから尼崎方面への乗合船
が出ていたとの記録もある。
今橋は大正13年に近代橋になったが、戦後、東横堀川に沿って阪神高速道路が建設されたときに
若干の改造が加えられた。この橋も老朽化が進んだため、平成6年12月に現在の橋に架け換えられ
ている。
最寄り駅:地下鉄堺筋線、京阪電鉄「北浜」駅
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2016/07/23 16:40
浪速の名橋・50選「高麗橋」
file:///D:/OSAKA/html/kourai.htm
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高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎ
ぼし)をもつ立派な橋となっていた。高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島から
の使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通
商の中心地であったことに由来するというものが主なものである。
高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の
店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。
江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ、幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが、この
高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた。明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道
路の距離計算はここを起点として決められていた。
橋長71.4m、幅員7.7mと大規模な橋であった高麗橋は、木材の老朽化はもとより洪水による破損、火
事による焼失などで度々架け換えられてきた。
明治3年(1870)にはイギリスより輸入された鉄橋に架け換えられ、「くろがね橋」とよばれていた。現
在の橋は昭和4年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった
櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。
最寄り駅:地下鉄堺筋線、京阪電鉄「北浜」駅
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2016/07/23 16:40
浪速の名橋・50選「平野橋」
file:///D:/OSAKA/html/hirano.htm
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江戸時代の平野橋界隈は、東に神明神社、西に御霊神社があり、その門前の盛り場として賑わって
いた。定期的に開かれる夜店は当時の大阪名物のひとつとされていた。また町内には北組の惣会所
が設けられ、町政の中心地でもあった。平野町の名前の由来は定かではないが、御霊神社の祭神、早
良(さわら)親王が京都の平野神社に祀られていたことからこの界隈が平野とよばれるようになったとさ
れている。
『地方役手鑑』などの資料によると平野橋は橋長61.8m、幅員4.1mとなっており、明治31年(1898)の
架け換え時の資料にもほぼ同規模の橋であったとの記録が残されている。
現在の平野橋は昭和10年につくられたもので、逆ランガー桁とよばれる珍しい形式で、この形式の適
用は世界で初めてであるといわれた。アーチ部材が細くスマートな印象を与える橋でである。
最寄り駅:地下鉄堺筋線、京阪電鉄「北浜」駅
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2016/07/23 16:41
浪速の名橋・50選「本町橋」
file:///D:/OSAKA/html/honmachi.htm
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本町橋は現役の橋としては、大阪市内最古の橋である。豊臣秀吉が大阪城築城に際して東横堀川を
外堀として開削した時に架けられたと考えられている。江戸時代には公儀橋12橋の一つとして幕府が
直轄管理する橋であった。
橋の東側は商業地となり、今の大阪コクサイホテルの前には石畳が敷かれ荷揚場になっていた。ま
た橋詰の北東側には享保9年(1724)の大火事以降に西町奉行所が設置され、行政の中心地ともなっ
た。なおこの奉行所は、森鴎外の『最後の一句』に登場する。
天明7年(1787)の調査によれば、橋長約54m、幅員5.9mの木橋であったとされている。現在の橋
は、本町通が市電道路として拡幅された大正2年(1913)に架け換えられたもので、3連の鋼アーチが、
ルネサンス風のデザインをもつ石造りの橋脚に支えられた重厚な構造の橋となっている。
最寄り駅:地下鉄堺筋線、中央線「堺筋本町」駅
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2016/07/23 16:41
浪速の名橋・50選「下大和橋」
file:///D:/OSAKA/html/shimoyam.htm
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東横堀川は上大和橋のすぐ下流で終わり、ここで川は直角に曲がって道頓堀川となる。この道頓堀
川に架かるのが下大和橋である。橋の名前は橋の北詰の大和町に由来する。大和町は東横堀川か
ら、日本橋筋付近までの東西に長い町で、金比羅詣の舟の発着場があり、参詣客相手の舟宿で大変
賑わっていた。橋の規模は、橋長42.3m、幅員2.7mであったと『米商旧記』にある。
また、下大和橋は正徳5年(1715)に初演された近松門左衛門の『生玉心中』の中で「大和橋出見世
の場」の一場面になっていて「こころこころの、商(あきな)ひも、みな世渡りの大和橋、下行く水の泡よ
りも、色にぞ銀(かね)は消えやすく」と表現されている。
明治36年(1903)に橋付近に巡航船の乗船場ができ、最盛期には1日2万人もの利用客がある交通
機関となったが、市電の拡張に伴い利用客は減り、大正3年(1914)には廃止された。明治以降も木橋
であったが、昭和3年に近代橋に架け換えられた。現在の下大和橋は昭和62年に完成し、橋面には植
樹枡などが整備されている。
最寄り駅:地下鉄千日前線、堺筋線、近鉄奈良線「日本橋」駅
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2016/07/23 16:41
浪速の名橋・50選「日本橋」
file:///D:/OSAKA/html/nippon.htm
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日本橋は紀州街道(旧国道29号線)が道頓堀を渡るところに架けられた橋で、江戸時代には幕府が
管理する公儀橋に指定されていた。日本橋の橋筋は長町とよばれ、道の両側には旅籠が軒をならべて
いた。橋詰には船着き場があり、水陸交通の要所として賑わった。特に人通りの多かった道頓堀への
曲り角にあたる南詰の西側には幕府の高札場が設けられていた。当時の橋の規模は資料によって異
なるが、橋長約40m、幅員約7mの木橋であった。
明治10年(1877)に鉄橋化されたのち明治34年(1901)に架け換えられ、さらに明治45年(1912)市電
が通る鋼橋となった。この時、堺筋の大幅な拡幅にともない橋の幅員も道路と同様の21.8mに広げられ
た。現在の橋は昭和45年の地下鉄建設にともなって架け換えられたもので、橋長28.8m、幅員28mと縦
横ほぼ同じ大きさの橋となっている。なお橋詰めには旧橋の親柱が残されている。
最寄り駅:地下鉄千日前線、堺筋線、近鉄奈良線「日本橋」駅
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2016/07/23 16:41
浪速の名橋・50選「相合橋」
file:///D:/OSAKA/html/aiau.htm
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行列ができることで有名なたこ焼き屋がある太左衛門橋の一つ東側の橋が相合橋である。この橋が
架けられたのは1680年代で、架設当初は中橋あるいは新中橋とよばれていた。宝永4年(1707)初演
の近松門左衛門の『心中重井筒(しんじゅうかさねいづつ)』の一節にも中橋として登場している。
相合橋と名付けられた時期は不明であるが、橋の南側は最近まで町名を東櫓町、西櫓町といったよ
うに芝居櫓が立ち並ぶ芝居町であった。一方北側は川筋の宗右衛門町はお茶屋街、橋筋には俗に六
軒町と呼ばれた遊郭があった。このように橋の周辺は大変華やかな雰囲気があり、「相合橋」という艶
のある名前がつけられたのであろう。しかしこの橋は、渡ると男女の縁が切れる“縁切り橋”ともいわ
れ、遊里の人々は橋を渡るのを嫌った。また婚礼の行列もこの橋は渡らなかったらしい。橋の規模は
江戸時代前期には橋長40.5m、幅員3.9m、明治14年(1981)の記録では橋長41.1m、幅員5.8mと幅が
かなり広くなっている。相合橋が永久橋化されたのは昭和37年のことで、昭和58年には橋の幅を両側
へ大きく拡げ、橋の上に憩いの広場が設けられた。
最寄り駅:地下鉄千日前線、堺筋線、近鉄奈良線「日本橋」駅
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2016/07/23 16:42
浪速の名橋・50選「戎橋」
file:///D:/OSAKA/html/ebisu.htm
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大阪ミナミの中心、若者の間では別名「ひっかけ橋」ともいわれ、一日中多くの人々の出会いの場とし
て賑わう戎橋は、道頓堀川の開削とほぼ同時に架けられたと考えられる。橋名の由来は今宮戎との関
連が考えられるが定かではない。また戎橋は、橋の南側に操り芝居の小屋があったことから操橋(あや
つりばし)とよばれたこともあった。さらに明治維新の直前、慶応3年(1867)に幕府が“戎”という外国
人をさげすむ言葉の使用を禁止、一時的に永成橋と改名されたこともある。
戎橋は今宮戎への参道にあたり、また千日墓地への墓参や橋の南側にできた芝居小屋や遊郭など
の遊興地へ行く多くの人々に利用されてきた。橋の維持管理は周辺の町が担当。記録によると元禄7
年(1694)の修理工事から明治11年(1878)に鉄橋に架け換えられるまでに13回の修理および架換え
工事が行われた。 現在の戎橋は、大正14年(1925)に架けられたもので、鉄筋コンクリート製である
が、アーチ部と高欄部は花崗岩で化粧され、重厚な外観に整えられている。夜のとばりがおり、戎橋の
アーチが道頓堀のネオンに彩られ、川面にその姿を映しだす様は大阪ミナミのシンボルの一つといえ
よう。
最寄り駅:地下鉄御堂筋線、四ツ橋線、近鉄奈良線、JR「なんば」駅
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2016/07/23 16:42
浪速の名橋・50選「大黒橋」
file:///D:/OSAKA/html/daikoku.htm
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道頓堀川沿いの久左衛門町と九郎右衛門町を結び、道頓堀川が西横堀川と合流するすぐ東側に位
置している大黒橋は木津の大黒神社への参道に当たっていた。江戸時代初期の地図にはこの橋は
「なんば橋」「下橋」と記載されているが、元禄16年(1703)の『公私要覧』には「大黒橋」とあり、これ以
降はこの名前が定着したようである。
江戸時代の大黒橋は木橋であり、橋長42.7m、幅員2.4mと記録されている。また、嘉永7年(1854)に
地震と津波が大阪を襲ったが、この際、木津川から道頓堀川へ津波がさかのぼり、西道頓堀川の橋は
全て壊れた。さらに遡上してきた船や橋が大黒橋に引っ掛かり岸へ乗り上げたため、周辺の家屋が壊
され、甚大な被害を被ったとされている。
大黒橋は、昭和5年に橋長35m、幅員9mのコンクリートアーチ橋となり、同時に上流側には道頓堀
川の浄化用の可動堰が設けられた。その上部は歩行者道路となり、昭和63年にはベンチ、植樹枡が
設置されるなど憩いの場として整備された。
最寄り駅:地下鉄御堂筋線、四ツ橋線、近鉄奈良線、JR「なんば」駅
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2016/07/23 16:42
水門整備の概要
● 水門の役割
①高潮防御機能
東横堀川水門
道頓堀川水門
・高潮や津波を防御し、まちを守る機能
②水位の制御
・潮の干満による水位変動を両水門により
制御し、遊歩道に近い高さの水位を保つ
③閘門機能
道頓堀川水門
・水門の前の異なる水位を調整し、船舶の
航行を可能とするための機能
④水門操作による河川浄化
・水門操作により、寝屋川の水の流入を抑
制し、清浄な大川の水を多く取り入れる
河川水質浄化対策を実施
干潮時前後
満潮時前後
東横堀川
水門
道頓堀川
水門
東横堀川水門
東横堀川
水門
道頓堀川
水門
大川
水門操作
による
水質改善
への取組
汚れた水は、
潮位が低いときは、
潮位が上がってくると、
潮位の低下をみはからって、
寝屋川の水が入らないよう
清澄な大川の水位も上がるので、
下流水門を開け、放出します。
上流の水門は閉めています
上流水門を開けて取り入れます
東横堀川
木津川
閘門機能
上流側には門扉型のマイターゲート
上流との水位差が無くなると
ラジアルゲートが閉まり、
マイターゲートが閉まっています
マイターゲートが開いて、
下流側には回転型のラジアルゲート
バイパスポンプによる注水が始まります。
下流から来た船は、
船は上流に入っていくことができます
両ゲートの間に入って停船します
二つのゲートで、水門内外に水位差があっ
ても船が通行できます
閉
開
閉
Close
Open
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