学科共通科目(2016年度) 第13回 倫理的な正しさとは 何か コミュニタリアニズムの立場 質問に対する解答 負荷なき自己と位置ある自己 • さて、サンデルは、リベラリズムとコミュニタリ アニズムの論争を「負荷なき自己」 (unencumbered self)としていますが、人間 の自己はもともと何らかの負荷をもっていると いうが、リベラリズムはないとする、という考え 方がいまいちよく分からないのでもう一度教 えて下さい。 • 人間はつねに何らかの共同体のうちで生きて いて、その影響を受けています。リベラリズム は、このような影響を排除した、純粋な理性的 な自己を道徳的行為の主体として前提します。 サンデルも、道徳的主体は理性的であることは 認めるでしょうが、共同体の影響を受けながら もそのことを自覚した上で、道徳的主体に共通 善を目指して行為することを求めます。 共通善 • ・・・コミュニタリアニズムは個人よりも社会の ような共同体を重視する考え方である。私は 前回の授業で、リバタリアニズムに対して、「 個人を重視しすぎて自分勝手だ」という印象 を受けたので、コミュニタリアニズムの考え方 に賛成である。特に、社会に共通した善や道 徳を設けることはとても重要だと考える。一言 カードへの返答でもあったように、リバタリア ニズムの考え方だけだと他人への思いやり が希薄になり、いじめや犯罪が増えてしまう恐 れがある。そこで社会に共通した善を設け、そ れを学校で教えることによって、子供どもたちは 共通善から逸脱した行動をとらなくなる。すなわ ち犯罪やいじめの防止になるのだ。サンデルは 、市民道徳を育てる場として公立学校を挙げて おり、そこで行われる公民教育は実践的だと言 っていた。今日の教育現場は学力を競うのでは なく、このような考えに則り教育すべきである。 • ただし共通善として何を教えるかは非常に難 しい問題です。人間の尊厳などきわめて抽象 的なもの以外は教えることが難しいでしょう。 具体的な内容をもった道徳を教えると、特定 の道徳を押しつけることになります。 社会の連帯 • ・・・コミュニタリアニズムは個人よりも共同体 を重視する考え方である。サンデルが主張し たのは、貧富の差によって社会の連帯が崩 壊してしまうということである。社会は、税金 による公共サービスや社会保障によって成り 立っている。私たちはその税金を納めること によって公共サービスを受け、税金〔→社会 保険料〕を納める人がいて年金などの社会保 障を受けることができる。その支え合いと循 環が機能しなくなっ たとき社会の連帯は崩壊する。貧富の差が拡 大すると、富む人は公共サービスから離れ、社 会の支え合いの輪からも距離を置く。利用者の 減った公共サービスは質が低下していく。〔コミ ュニタリアニズムは、〕以前学んだリベラリズム の立場の主張の格差原理によって間接的に再 分配することよりも、富める者と貧しき者が相互 的に尊重し支える社会を構築できる政治が必 要だと説いた。現代社会において、共同体への 意識を高め、社会全体での支え合いを推進して いくことが不平等を解消し、公正な社会をつくる ことができる。 • 富める者と貧しい者が相互に尊重し支え合う 社会が理想ですが、これを政策として実現す るには富める者にもっと高い税金などを課す 方策など税制を変えるしかないでしょう。その ときに国民が納得するかどうかが問題です。 コミュニタリアニズムの問題点 • ・・・コミュニタリアニズムとは、リベラリズムや リバタリアニズムが個人を尊重するのとは対 照的に、歴史的に形成されてきた“共同体” の伝統の中でこそ個人は人間として完成され 生きていける、というものである。コミュニタリ アニズムの論者たちは個人主義が強まると、 共同体の価値観ではなく個人の価値観を優 先するようになり、それが衝突しあって人と人 とがバラバラになって犯罪などの問題が起き てしまうのではないか、と個人主義に反論して いる。しかし、もしその共同体が間違った方向 に進んでいった場合、個人は自らが間違ってい ると気づけない可能性がある。例えばナチスや 、戦中の日本のような、行きすぎた共同体は個 人をかえりみなくなるかもしれない。共同体の 中で助け合う、支え合うことは大切だが、現代 においては、個人を尊重し、それぞれが自分の 考えを持てるようにすることも大切だ。それが、 また良い共同体づくりにもつながるのだ。 • ・・・コミュニタリアニズムは共同体を重視する 。ここがリベラリズム、リバタリアニズムとの決 定的な違いである。コミュニタリアニズムは精 神的な部分を必要とするようであった。「公正 な社会」には「強いコミュニティ意識」が求めら れるとサンデルは主張し、実践的な公民教育 により市民道徳を身につけることが必要であ るとした。こういった共同体における強いコミュ ニティ意識が個人に作用し自由をさまたげる ものになり得るという問題点も考えられるの ではないかと思った。強いコミュニティ意識をも つという点で、なにか行動をおこすときなどあま りに共同体を重要〔?重視〕することで危険にお ちいるという可能性もあるのではないかとも思 った。そうなってしまえばもはや全体主義となっ てしまうのであろう。そのコミュニタリアニズムと 全体主義の境界線はどうやって分けているの か疑問に思った。 • よい指摘です。コミュニタリアニズムは全体主 義に陥る危険性をもっています。コミュニタリ アニズムにとっても個人は尊重されねばなら ず、個人を尊重した上で共同体を再形成する ことが重要でしょう。全体主義との境界線は 個人を尊重するかどうかでしょう。 コミュニタリアニズムと成員資格 • ・・・コミュニタリアニズムは個人よりも共同体〔 の〕を重視する考え方である。私がコミュニタ リアニズムの考えの中でメリットを感じたのは 、「不当に排除された同胞(この言葉を私はロ ールズのリベラリズムにおける『不遇な人々』 と同じ意味合いであると認識している)に全面 的な成員資格を認める」という点である。ロー ルズのリベラリズムでは、「不遇な人々」が救 済を受けた時に、「自尊」の感情を持てなくな ることが危惧されていたが、コミュニタリアニズ ムでは「救済」ではなく、「成員資格を認める」と している。すなわち、「不遇な人々」も、「社会」と いう大きな組織にとっての「メンバー」であると 認めることで、「自尊」の感情を持てないという 問題を解消しているのだ。これはロールズのリ ベラリズムにはない利点の一つであると言える 。 • 「成員資格」に注目したのは、コミュニタリアニ ズムの独自の解釈です。どのような人であっ ても、共同体の成員として認めることは共同 体に多元性を認めることになり、ウォルツァー のコミュニタリアニズムに近くなるでしょう。ま た自尊にも注目していることもすばらしいこと です。
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