「片倉高校野球部への入部を考えている中学生・保護者の皆様へ」 片倉高校野球部監督の宮本秀樹です。片倉高校野球部は現在3年生男子 20 名女子マネ ージャー3 名(計 23 名) 2 年生男子 31 名 1 年生男子 24 名女子マネージャー1 名(計 25 名) 合計 79 名で活動しています。その大部分が本校で野球をしたいという強い希望で本校に 入学し、入部してきた選手達です。 地元の出身者が多数を占めますが、区部を含め広い地域から通学してくる選手もいます。 また、中学軟式出身者が多いですが、最近では硬式クラブチーム出身者も増えています。 本年より高橋勇士、本城恵太の若く、指導経験もある二人を転勤でむかえました。大学野球 で活躍した OB の後藤凌太も投手コーチとして手伝ってくれることになり、スタッフはたいへん 充実しました。部長の成海均を含め、土・日などは 1 年生を含めチームを 3 つに分けて練習試 合をして多くの選手たちに実戦経験をさせております。 皆様方の進学先として本校野球部を検討していただくために、私宮本の経歴と考え方の一 部をご紹介いたします。 私は大学時代、母校である東京学芸大学付属高校の野球部の OB 監督を引き受け、高校 野球を指導する楽しさを知り都立高校の教員となりました(社会 世界史担当)。それから 36 年 間ずっと監督、又は部長として高校野球の指導に携わってきました(監督 29 年)。 初任の野津田高校では個性豊かな選手達との悪戦苦闘の 6 年間。今思えば恥ずかしいこと も多々あります。29 歳の時、2 度目の準優勝直後の東大和高校へ着任しました。東大和は「甲 子園のこころを求めて」の著者である佐藤道輔先生が指導するチームで「都立の星」として多 くの学校から目標とされ、期待されているチームでした。100 名を超える部員達は東大和の部 員であることに大きな誇りを持っているように思えました。その東大和で監督として選手を指導 する一方で、佐藤道輔先生より高校野球の在り方、指導者としての心構え、チームづくりの基 本などを直接学んだことは今思えば私の宝物であり、今の私の指導の原点です。 「最初にスパイクを履き替えた者がグランドの一番遠くまで(キャッチボールのため)走っていけ。 それを損したなんて思うな」「先輩だからといって頭を下げる必要はない、たかが 1、2 年早く生 まれただけじゃないか。あの人は尊敬できると思えば自然と頭は下がる。上級生はそういう先 輩になれ」「ベンチで指揮官の監督がいつも偉そうに座っているようなチームが勝てるか。戦う 先頭に立て」「相手への本当の敬意の気持ちなしでは試合は成立しない」「ボールが飛んだり 跳ねたりするところに友がいるから野球は素晴らしいんだ」「大人数のチームは常に活性化して いないと組織が淀み腐ってしまう」「俺は選手に理不尽な要求をしながら選手全員と戦ってい るんだ」「全体として、ひとつにまとまっていながらも、その中で 1 人 1 人が自己主張している。 そんなランニングを目指せ」「全員野球は単なる形式ではない思想であり哲学だ」「選手はこん な野球をしたくてここにきているんじゃない。選手の期待に答えてやることも指導者の責任だ」 などなど次々に思い出されます。 昨年 1 年かけて当時の先生の書かれた文章を整理し、先生の言葉を思い出して書をまとめ る作業をしました。今の自分の指導を見なおすきっかけになりました。現在本校野球部には当 時の監督をしていた時の東大和の選手の息子 3 人が所属し活動しています。また、練習の最 初と最後の全員でのランニングが当時の東大和のランニングスタイルを継承しています。 時代や状況も違うので個々の指導は違いますが、チームづくりの基本は東大和の全員野球 を継承するのだという私自身の決意の表れです。次の府中工業高校では、東大和 OB の大学 生のコーチと協力し、一からのチームづくりに着手しました。秋からはメンバーぎりぎりの 9 名の 部員で毎日遅くまで黙々と練習、他校との合同練習をかねて自分たちのスタイルをつくってい ました。大島高校、中野工業と三校合同での大島合宿など他校の指導者の方々に助けてい ただいたことは忘れられません。選手たちは本当に愚直に私の指導に答えてくれました。「アッ プが終わり、スパイクに履き替えたらグランドの一番遠いところにいってキャッチボールしろ」と いう私の言葉にこたえ、最後までそのポジションを守り続けた選手がいました。 チームは年々部員が増え、80 名を超えるチームになりました。それとともに着実に実力をつ け、秋季大会ブロック優勝(24 校)や秋季東京都ベスト 8 にもなりました。また、髙江洲拓哉が都 立高校投手として初のドラフト指名を受けました。(中日ドラゴンズ 高校生ドラフト 4 位指名) 入学後内野手だった彼を 1 年秋の大会後、投手にコンバートし、一緒に試行錯誤しながらピ ッチングフォームをつくっていきました。ピッチャーとして実力をつけ注目をされるようになって、 入学当初はやんちゃ坊主だった彼が日に日に周囲に気遣いできる大人になっていったことは 指導者として忘れられない体験となりました。多くの選手とチームの成長を実感できた 11 年間 でした。 そして現在の片倉、異動 2 年目秋より監督として指導するようになりました。最初のチームの 主将と副将には野球のへたな二人の選手を私が指名しました。正直チームの中でも野球のへ たな 2 人でしたが率先してグランドを走り、大声で仲間を励ますこと、そして決して妥協せず嫌 われ役をやり続けることを彼らに求めました。 監督が変わりやり方が大きく変わっても、上級生が1人も辞めなかったこと、それに夏はベスト 16になれたことで彼らの努力に報いることができたのではと思っています。主将は都の教員試 験に合格し、今年より都立高校の社会科教員として高校野球の指導者としてスタートしました。 素晴らしい指導者として活躍してくれると思います。また、副将は高校野球を終えた後、将来 の目標を決め、休み時間や放課後に残って遅くまで勉強し、大学に進学。2年から4年まで大 学でも成績トップで管理栄養士となり昨年より病院で勤務しています。 彼は卒業式で卒業生代表として答辞を読んで「野球を通じ、一生懸命やることは恥ずかしい ことではないことを知ったこと、そして本気で頑張れば自分でも驚くほど成長出来ること、自分 を支えてくれた方々への感謝」を正直に語りました。東日本大震災で在校生がいない卒業式 だったのですが、この答辞を在校生にどうしても聞かせたいということで校長が 4 月に始業式で 読むほどの内容でした。 次の代の後藤凌太には、私は「アンダーハンドへの転向」をすすめました。彼は一瞬驚いた あと、笑って「やってみます」と言い、それから毎日ブルペンで工夫しながらピッチング。3 年春 にはシード校を破るまでに成長しました。体育の先生の免許をとるということで駿河台大学に 進学し、新大学リーグの 3 部、2 部で下級生の時からエースとして登板。二部では最優秀選手 として二度の優勝に貢献。入れ替え戦でも活躍しチームの一部昇格の原動力として活躍しま した。昨年は教育実習生で大人になった姿を見せてくれました。 チームは H22 年西東京夏ベスト 16、H23 年春都ベスト 16、H24 年春都ベスト 16(夏のシード 権獲得)西東京夏ベスト 4 になるなど着実に力をつけています。2、3 回戦コールド勝ちのあと、 4 回戦でリリーフ小田嶋の好投と最終回のピンチをゲッツーで切り抜け、一点差で逃げ切った 東海大菅生戦。神宮球場での準々決勝、初回から積極的に攻撃、エース金井の完封で勝っ た東亜学園戦。準決勝、代打陣の活躍により終盤の追い上げであと一歩まで反撃したが及ば なかった佼成学園戦。周囲から注目され応援される喜びとプレッシャーの中で選手たちはのび のびとプレーし、本当に頼もしく思いました。「失敗したら下向くな。成功したと思って笑顔で次 のプレーに備えよう。勘違いでいいリズムができちゃうぞ」そんなアドバイスをよく守り、TV に写 った彼らの笑顔は少々不思議に思われたそうです。 その金井や小田嶋は立正大学へ二年後のエース長島隼輝は拓殖大学へ進学して野球を続 けており、後輩たちの励みになっています。 本校で野球をしたいという希望をもって入部してくれる部員も増えております。H26 年都ベス ト 16(シード校獲得)に進出しましたが、その後必ずしも公式戦で思い通りの結果を出せていな いでいます。また、少数ではありますが希望をもって入部したにも関わらず、途中で退部してし まうもの、学習や校外での生活面で注意を受けるものも全くいないわけではありません。まだま だ指導者としての力不足を感じます。 私も選手たちとともに成長していくべく努力していきます。君たちが入学し、入部してくれる頃 にはもっといいチームになっていたいと思います。 2016 年 7 月 東京都立片倉高等学校 野球部監督 宮本秀樹
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