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仏説大東亜戦争
日本民族の東亜開放を願っての捨身供養か
平成28年2月17日
東芝材遊会例会
阿部敏雄(敏翁)
北一輝・北昤吉兄弟彰徳碑
佐渡
両津
若宮神社境内
北一輝の命日 8月19日に
『偲ぶ会(正式名は不詳)』が開
かれていて、中川哲昌さんは招
かれた事があるようだ。
中川さんは、東芝、東芝セラ
ミックス
で 部長職などを歴任後、
生地の佐渡羽茂町の教育長、そ
の後佐渡市の教育長を歴任。
地図は後程
安岡正篤の撰文 大意
彰徳碑裏面に、各兄弟に対する碑文がある。
北一輝には安岡正篤が撰文を行っている。
佐渡はかってから幾多の革命的人物が流謫されているが、
特に順徳上皇と日蓮上人 の英魂が先生の心霊に強く力を
及ぼした。
そして、天皇と法華経により天地震裂し、無量の菩薩や優れた
衆生が現れる革命を期して殺身供養したと察することが出来る。
この撰文から、大東亜戦争は日本民族の捨身供養ではないかとの発想を得
た。
北一輝の肖像
両津郷土博物館
北一輝コーナー
霊告日記の原本
地図は後程
北一輝生家
故・本間一元さんは
ここに中学卒業まで
住んでいたという。
一輝は一元さんの大伯父
に当たる?
本間さんは、東芝セラ
ミックスにてシリコン事
業部、中央研究所で部長
職などを歴任。
地図は後程
佐渡全図
羽茂町
中川さんの生地
両津郷土博物館
根本寺は、日蓮が佐渡流刑
後
初めて留まった地に建立。
熱烈な日蓮宗信者であつた
一輝の母親(本間リク)の生
北
一
輝
の
生
家
若
宮
神
社
私の少年期と2.26事件の関係
昭和11年2月26日 2.26事件発生
私の誕生日は2月25日、昭和11年小学校入学
中学1年の時受けた心的外傷体験
大東亜戦争勃発の翌年、昭和17年中学(旧制 )入学。
当時先生も気が立っていたせいか、極めて暴力的だった。
1年生の時ある先生に殴られ、思わず振った手が先生の顔に当たり、その時
私に投げかけられた言葉が未だに心に刺さっている。
『凄い子だね。あんたはきっとロクな死に方はしないよ』
それ以来、戦前「ロクな死に方をしない」典型として、2.26事件によって国家反
逆罪で死刑
になった人たち、特に北一輝と磯部浅一が気にかかっていた。
超天才の北一輝は及びもつかないが、磯部浅一なら可能かなどと思っていた事も
2.26事件慰霊碑
現在の渋谷公会堂の近くに立つ。
旧東京陸軍刑務所の跡地。
2・26事件の反乱将校が処刑された場所。
碑文にある刑死者は、
昭和11年7月3日
相沢三郎
(昭和10年8月12日永田鉄山を刺
殺)、
昭和11年7月12日 青年将校た
ち15名、
昭和12年8月19日 4名
(北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝
次)
磯部浅一「獄中日記」より
• 天皇陛下 陛下の側近は国民を圧する漢奸で一杯でありますゾ、御
気付キ遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、今に今に大変なこと
になりますゾ、
• 日本の神々はどれもこれも皆ねむっておられるのですか、この日本
の大事をよそに忙しているほどのなまけものなら日本の神様ではな
い、磯部菱海はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る、そんな下らぬ
神ならば、日本の天地から追いはらってしまうのだ、よくよく菱海
の言うことを胸にきぎんでおくがいい、今にみろ、今にみろッ。
磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8
月19日)
三島由紀夫は磯部の「獄中日記」を高く評価し、『「道義的革命」の論理――
磯部一等主計の遺書について』を著している。
捨身供養の原点
日本民族が仏教伝来の当初から捨身供養の考え
を受け入れていて、ある種の憧れをもつて
表現していた「捨身飼虎図」があり、
これは日本民族の性情の特筆を表しているとの
記述を
矢代幸雄著 「日本美術の特質」
に見つけ出して一先ず拙論を構築する事が出来
たのである。
「捨身飼虎図」は法隆寺所蔵の玉虫厨子・須弥
座部右側面に描かれている。
右図は明治時代の模写
アウン・サン
• 以下ウィキペディアより抄録
• アウン・サン、オンサン 1915年2月13日 - 1947年7月19日)は、ビルマ
(のちのミャンマー)の独立運動家。
• 「ビルマ建国の父」として死後も敬愛されている。民主化運動指導者と呼
ばれるアウン・サン・スー・チーは長女。
• 1938年10月より学生運動から政治運動へと移り、反英運動を展開する
• 1940年にバー・モウの「貧民党」と合流し、イギリス官憲の逮捕状が出た
ためアモイへ亡命、さらにビルマ独立の支援により援蒋ルートの遮断を意
図する日本軍の鈴木敬司参謀本部大佐により日本へ逃れ箱根の大涌谷に滞
在していたという口碑がある。この時彼は25歳だった。
• 太平洋戦争開戦後の1941年12月16日に、アウンサンと同志たちは南機関の
支援を得てバンコクにビルマ独立義勇軍を創設。日本軍と共に戦い、1942
年3月にラングーンを陥落、1942年7月ビルマからイギリス軍を駆逐するこ
とに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ防衛軍に改組した。
・しかしこの頃彼はビルマ国軍への日本の待遇のあり方やビルマの独立国とし
ての地位に
懐疑的になり、その後インパール作戦の失敗など日本の敗色濃厚とみるや、
イギリスに
つく事を決意する。
ここの辺りが信夫著の最後に書かれている。
そのハイライトと思われる部分を次頁に掲げる。
・日本に勝利したもののやはりイギリスは約束を反故にし、ビルマの完全独立
を許さなかった。
・元南機関長鈴木敬司予備役少将が、戦後ビルマに連行され、BC級戦犯として
裁判
にかけられそうになった時、アウンサンは猛反対し、鈴木は釈放された。
・ 1947年7月19日、翌1948年1月4日のビルマ独立を見ることなく、6人の閣僚と
三月一日、ビルマ国軍は反乱した。 軍司令官アウン・ サンは、南機関以来ビルマ
国軍
につきそってきたビルマ軍司令部軍事顧問高橋八部大尉に反乱の意図を語った。
高橋<今後あなたはどうするつもりか。>
アウン・ サン<これからも引き続き日本と行動を共にすることはビルマの滅亡を意
味する。
高橋<英国とはどんな交渉をされているのか。>
アウン・ サン<理想とするところはビルマの完全独立である。 それが不可能なら
自治領だ。
この線で交渉中である。
またもし、以上の二つとも承認されないときは、飽くまで英国と
戦うつもりである。
/ビルマの独立を主張するには、少なくともここで反日の姿勢を示
し、 英国に
具体的に証を立てねばならぬ。
だから叛乱を起こしたのである。>