北方領土問題について

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北方領土問題について
1026607c 林
優紀
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北方領土の基礎知識
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北方四島とは?
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日本がロシアから返還を求めている
択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島のことを指す。
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総面積は5,036平方km
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冬の平均気温は−4.5℃、
夏の平均気温は16℃程度
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自然の宝庫であり、水にも恵まれ
野菜等の豊作も可能。
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周辺水域は暖流と寒流が交差する影響で
蟹、鮭、海藻など水産資源が豊かである。
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北方領土の地理
北海道根室市納沙布岬から
歯舞群島貝殻島までの距離
→3.7km
根室の野付半島から
国後島までの距離
→16km
ロシアではサハリン州
南クリル地区とクリル地区に
属する。
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北方領土の歴史(1)
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1635年 松前藩士・村上広儀が蝦夷を探検。
四島の地図が作成される。アイヌがこれらの島に住んでいた。
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1855年 それまで決められていなかった日本とロシアの国
境が日露和親条約(日露通好条約、下田条約とも呼ばれる)に
よって択捉島とウルップ島の間に定められる。
樺太は両国民混住の地のまま
国境は設けられなかった。
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北方領土の歴史(2)
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1875年 樺太千島交換条約により樺太がロシア領、占守島
(シュムシュ島)からウルップ島までの千島列島を日本が譲り
受けた。
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1905年 日露戦争後のポーツマス条約によって南樺太が日
本領となる。
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太平洋戦争前後
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1941年 「日ソ中立条約」締結
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1945年2月 ヤルタ会談にてソ連の対日参戦の見返りに
南樺太をソ連に返還し千島列島をソ連に引き渡すべきとした。
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1945年8月8日 ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。
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1945年8月14日 ポツダム宣言の受諾。
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1945年8月11日〜
ロシアの侵攻が始まり南樺太、北方領土、千島列島を順に占領。
8月18日には千島列島の最先端・占守島に攻撃。
四島には終焉時に17,291人の日本人が定住していたが、当初は本国
帰還は認められなかったものの1946年にGHQとソ連の間で引き揚
げが合意されると四島から引き揚げられた。
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戦後の動き
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1951年 サンフランシスコ講和条約
第二条(c)日本国は、千島列島(クリル諸島)並びに日本国が千九
百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太
の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請
求権を放棄する。
日本は千島列島(クリル諸島)を放棄するが、
この千島列島の範囲が明確ではない。
→択捉・国後が含まれるかどうか。
日本と連合国の間にこのサンフランシスコ講和条約が締結された
が、ソ連は調印に加わらなかった。
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戦後の日ソ交渉
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日ソ共同宣言
1956年10月19日 鳩山一郎がソ連を訪れ、日ソの国交
は回復した。ここでの領土問題の扱われ方は、
(1)歯舞群島と色丹島は平和条約締結時に日本に返還する。
(2)その他の問題を平和条約締結時に協議する。
日本はその他の問題に国後、択捉問題を含むという解釈だが、
ソ連は違う。
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冷戦期 冷戦の激化とともに領土問題への態度も強硬になる。
安保条約に対する根拠のないからみ。
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ゴルバチョフとエリツィン
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ゴルバチョフ
ゴルバチョフは海部首相との共同宣言において領土問題の存在を
認める。ビザ無し交流も提案された。
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エリツィン
93年 日ロ首脳会談にて「北方4島の帰属問題を解決し平和条約を
締結する」と初めて4島返還に言及した東京宣言が調印される。
97年 「2000年までに平和条約締結」という目標を設定した「クラ
スノヤルスク合意」が調印された。
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プーチン以降
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プーチン
2001年 森首相と調印した「イルクーツク声明」にて日ソ共
同宣言の有効性を確認し二島返還の姿勢をとったものの、以後は
強気な態度に転じた。
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メドベージェフ
2010年11月 国後島を訪問し話題となる。
当初は意欲的だったものの北方四島をロシア領と
主張するようになる。
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現在の北方領土
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住んでいるのはロシア系住民のみで日本人は一人も住んでいな
い。歯舞群島には住んでいない。人口は16,796人(2005年)
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主な産業は漁業と水産加工業
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日本人のビザ無し交流は交流と墓参りに限られる。
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ロシア側はクリル諸島のインフラを進めている。
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解決方法
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四島返還論
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二島返還論(段階的返還論)
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その他…共同統治、国際司法裁判所、
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論点
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北方領土問題についての意識
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解決方法・交渉方法について
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現在の状況が続けばどういう事態に陥るか
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参考文献
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『北方領土の真実』 中名生 正昭
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『ロシアへの反論』 安全保障問題研究会
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『北方領土』 木村
ひろし