第135回国際島嶼教育研究センター研究会 現代思想における比喩としての《島》 -ドゥルーズの「島」概念についての一考察- 近藤和敬(鹿児島大学法文学部) 平成25年1月28日(月)16時30分から 総合教育研究棟5階 国際島嶼教育研究センター会議室 1 今回の発表の位置づけ • 何か具体的な結論を述べるというよりも、今 後長い時間をかけて問題を展開していくため の方向性と可能性を示すことが、今回の発表 の目的。 • 大きなテーマ:「島の哲学」の可能性を探る。 • 今回の題材(小テーマ):ドゥルーズの「島」概 念とその思想的可能性の検討 2 背景にある問題関心〈1〉 環境哲学の必要性① • 非拡張義的な環境倫理のための、非プラグ マティックで一貫した哲学の可能性の探求 – 環境倫理学における拡張主義(伝統的倫理学を 単に拡張することで、環境問題に対応する立場) の問題点(J・R・デ・ジャルダン2004, pp. 201-2) • 成人男性主義:道徳的考察の対象の規準の狭さと道 徳的な階層性 • 個体主義(種、環境、関係、システムなどは独自の地 位を持たない) • 非包括性、非一貫性(個別問題への場当たり的対応し かできず、一貫した指針を提示できない) 3 環境哲学の必要性② • 環境哲学のプラグマティズムの問題点 – プラグマティズム(真理に関して多元論的かつ文脈主義 的な立場をとり、問題状況ごとの現実に即して、解決を提 示する立場)は、思弁的概念の検討よりも、現実的な問 題状況の解決に重きを置きがちになる。それによって、可 能かもしれない理論的進展と相関する別様の解決を先送 りし、あるいは覆い隠すことになる。 – 思弁的概念(たとえば、「他者」や「主体―対象図式」)の 検討が、現実的な問題状況を無視しているわけではない。 ただ、哲学史で常に起こってきたことだが、そのような検 討が「時宜を得ない」ということは不可避である。しかし、 「時宜を得ない」がゆえに応用的価値を持たないことは、 それ自体価値を持たないということを必ずしも含意しない。 4 背景にある問題関心〈2〉 哲学(史)への批判① • 都市-国家を規範的モデルとしてきた哲学 – 人間の徳性に関する議論は、基本的にこの都市-国家 の構成員の評価をめぐる議論と結びついてきた。(プラト ン『国家』、アリストテレス『政治学』) – 教育、啓蒙、人間性の完成という図式。 • エコフェミニズムの成人男性中心主義に対する批判と重なる。 – 無意味、無価値、無秩序としての自然。有意味、価値的、 秩序的な文化。文化による自然の秩序への包摂。 • この延長線上に、一なる自然と多なる文化という多文化主義はい まだある。(これに対してヴィヴェイロス・デ・カストロの「多自然主 義」というものが対置されうる。) – 啓蒙図式と結びついてきた認識論 • 相対的で非‐真理を担う主体と、絶対的で真理を担う客体の分離、 およびその再統合過程としての認識過程および教育・啓蒙。 5 哲学(史)への批判② • 都市-国家を規範モデルとしてきた哲学へのカウンター パートをいかにして構築するか。 – 規範モデルとしての都市-国家は、多くの哲学者の哲学体系 にとって、自明の主題ではなく、非自明的で暗黙の前提に属す る。中心性、コミュニケーション的権力への志向。体系の差異 化ではなく、体系への統合、包摂への欲求。 – したがって、これは、C・シュミットが言うように(『陸と海と』)、哲 学的体系の構成可能性を条件づけている想像力(「思考のイ マージュ」、cf., ドゥルーズ『差異と反復』)の部分と密接に結び ついてきたように思われる。(後で見る「土/空」の対抗関係) • 都市-国家モデルにとって、「大地」は基本的な想像的元素 (élément、バシュラールの「想像力論」における四元素説)をなしてい る。「大地」は、刻印され、分割され、所有され、その上にあらゆる体 系が打ち立てられる基礎を与える。(ロック、ホッブズ、ルソーにおけ る土地所有と社会の起源の関係、およびフッサール「幾何学の起源」 における理念的意味の土台としての大地を参照。) • この問いへの一つの答えの試みとしての「島」概念。 6 背景にある問題関心〈3〉 ポストモダンからの距離 • 以上の関心は、ポストモダンの議論とかなりの部分重なる が、重要な違いを含む。 – ポスト-モダンという言葉が理解可能であるためには、「近代」 (モダン)の「後で」(ポスト)という同一時間軸上の変化(超克、 打消し、乗り越え、革命)が前提されなければならない。しかし、 このモダンとポストモダンが共有する「同一時間軸上の変化」 だけを唯一の変化の概念とみなす立場こそが、批判される必 要がある(cf., ラトゥール『虚構の〈近代〉』)。 • ポスト-モダンを「近代の終焉」あるいは「近代の完成」、あるいは 「無限に続く近代化の不動点」とみなし、相対主義、ニヒリズム、記号 消費主義、都市-技術礼賛を肯定する背景には、革命的救済への 理論的諦念と同時にそれへの情緒的愛着という両価的態度が隠れ ているのではないか。マルクス的な古典的革命観へのひそかな愛着。 • 重要なのは、近代の「前」や「後」ではなく、その中に含まれつつも否 定され展開されてこなかった可能性を取り戻すことではないのか。そ して、近代の時間軸とは別の軸において(この別の軸というのが、今 回の議論の「目的に関する倒錯」と関わる)、近代の時間軸から分出 し、それと共立する仕方で、その可能性の展開を模索することではな いのか。 7 デフォーの『ロビンソンクルーソー』 • ダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660-1731) – イギリス、ロンドンの商人の子として生まれる。小説 なるものがイギリスで書かれ、読まれるようになった 初期頃の著作家。 • 『ロビンソンクルーソー』(Robinson Crousoe) – 「難破してひとり岸に打ち上げられ、アメリカ海岸、オ ルーノコの大河の河口近くの無人島に28年間孤独の 生活を送ったヨークの船員ロビンソンクルーソーの生 涯と驚嘆すべき珍しい冒険および、そのすえに、彼が 奇しくも海賊の手で救出されたいきさつに関する本人 の手記」(正式名称) 8 デフォーの『ロビンソンクルーソー』の ポイント① • 主たる登場人物 – ロビンソン・クルーソー:イギリスの商人の息子。 – フライデー:南米先住民族の一人。ロビンソンが 漂着していた島は、フライデーが属する部族と敵 対する部族が、生贄を殺す場所としていた。その 敵対部族の青年がそこで殺されようとしていた時 に、ロビンソンによって救われる。以後、ロビンソ ンの忠実な奴隷となる。 • デフォーとトゥルニエのあいだで共通する登場人物。 9 デフォーの『ロビンソンクルーソー』の ポイント② • 太平洋上での三角貿易形成期の社会的・経済的現実を反映して いる。 • 太平洋の孤島での寄る辺なき生活の中での、無信仰からプロテス タンティズム的信仰への目覚め。それによる人生の意味の回復。 • 労働、管理、計画の立案と実行、法の制定など。当時の社会的現 実の島への移植。島の諸々の自然の文明化。農作物の計画的栽 培および蓄積と家畜の繁殖。家屋、別荘、貯蔵庫、見張り台など の建造物の建設。 • 先住民への差別的な記述:野蛮で憐れむべき無知の存在者とし ての。助けた先住民(フライデーと命名される。この名も、聖書に由 来する聖人の名前ではないが、ただの物の名前ではない、抽象的 一般物の名前であるがゆえに、未開の野蛮人には適当であるとい うことでつけられた)の教化と主従関係への包摂。彼からロビンソ ンへの過剰なまでの感謝と揺るがない忠誠。ヨーロッパ文化の優 位性の記述。地球をヨーロッパへ包摂化する欲望への疑いなさ。 • ヨーロッパ人を生贄に殺そうとした先住民約20人を殺戮する場面 での冒険譚的記述(スプラッター映画並み)に対する著者の無批 判なまなざし。 10 ドゥルーズの「無人島の原因と理由」 におけるデフォー批判と問いの設定① • ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995) – 戦後フランスのもっとも重要な哲学者の一人。主著として、『ス ピノザと表現の問題』、『差異と反復』、『意味の論理学』、『シネ マ1、2』など。F・ガタリとの共著に『アンチ・オイディプス』、『千 のプラトー』、『哲学とは何か』などがある。 • 「無人島の原因と理由」(« causes et raisons des îles désertes ») – 53年以降の50年代に書かれた手書き原稿で、雑誌Nouveau Féminaによって企画された無人島についての特別号のために 準備されたものである。ただし、この原稿は彼の生前にはどこ にも発表されることはなく、『無人島とその他のテキスト』 (2002)で初めて公刊された。公刊されなかった理由は不明。 – 48年に教授資格試験に合格した後、50年代は、57年までリセ (日本の高校相当)の教員、57年からはソルボンヌ大学(現パ リ第一大学)の助手を務めている。その後、パリ第八大学教授。 ちなみに、後に述べるミシェル・トゥルニエは、同じ48年の試験 に落ちて、哲学教員の道を断念している。 11 ドゥルーズの「無人島の原因と理由」 におけるデフォー批判と問いの設定② • ドゥルーズのデフォー批判抜粋 – 「ロビンソンでは、力点は別の側面である創造、再開に置かれている。・・・ロ ビンソンでは、死は最も重苦しい。これ以上に退屈な小説は思い当たらない。 まだこれを読んでいる子供を見るのはつらいことだ。ロビンソンの世界観は、 ただひたすら所有にある。これほど道徳的な所有者は、かつて誰も見たこと がない。無人島から始まる世界の神話的再創造は、資本から始まるブルジョ ワ的日常生活の再構成に席を譲る。すべては船から引き出され、何ものも創 造されない。すべてが骨を折って島に適用される。時間は、労働の末に利益 をもたらすために資本に必要とする時間に過ぎない。また神の摂理による機 能は、所得を保証することである。神には自らの僕たち、善き人々がわかる。 なぜなら、彼らには上等な所有物があるからだ。神はまた、誰が邪悪な人間 たちかもわかる。彼らには粗悪な、手入れの行き届かない所有物しかない。 ロビンソンの伴侶は、イヴではなく、フライデーである。彼は労働に従順な、 嬉々とした奴隷であり、早々に食人antropophagieを嫌悪するようになる。健 康なあらゆる読者は、彼がついにロビンソンを食べるところを見たいと夢想す ることだろう。この小説は、資本主義とプロテスタンティズムとの結びつきを主 張する説の最上の絵解きを与えてくれる。ロビンソン・クルーソーは、神話の 破産と死とをピューリタニズムのなかで展開する。」(Cause et raison des îles désertes, p. 15 / 「無人島の原因と理由」、前田英樹訳『無人島1953-1968』、 pp. 18-9.一部改訳) 12 ドゥルーズの「無人島の原因と理由」 におけるデフォー批判と問いの設定③ • ドゥルーズのデフォー批判の理論的前提 1. 2. 3. 「無人島の本質は想像的であって、現実的réelleではない、神話的 であって地理学的ではない」(p. 14 / p. 18)。「分離」と「創造」という 島の分類(大陸島と火山島)。 「文学はもはや理解されなくなった神話を巧妙に解釈する試みであ る。解釈がなされるのは、もはや人が神話を夢想も、再生産もでき なくなった時である」(p. 15 / p. 18) 「(無人)島」の三つの神話的規定 1. 2. 3. 4. 創造ではない再‐創造re-création、開始ではない再‐開re-commencement。 「資本」の神話的要素。再‐創造は、第一の起源の反復である限りで、第一 の起源における創造よりも深い。差異の反復の可能性が含まれる故に。 第一の起源ではない第二の起源。「分離」séparationの神話的要素。 無人島は「一切を再‐生産するのに充分であるはずの核、あるいは発散す る卵œuf irradiant」(p. 16 / p. 20)である。再‐開は、男神と女神のカップル からではなく、一つの卵から発する。「独身者」の神話的要素。 ドゥルーズの問いは、文学が、この神話的要素をどれほどの強度 で、またデフォーとは異なる仕方で反復することができるのか、とい うことへと向けられる。そしてこの問いは、トゥルニエによって引き 受けられる。 13 トゥルニエの『フライデーあるいは太平 洋の冥界』① • ミシェル・トゥルニエ(Michel Tournier, 1924-) – フランスの小説家。『フライデーあるいは太平洋の冥界』でアカデ ミー・フランセーズ賞を、1970年の『魔王』(Le Roi des Aulnes)で、ゴ ンクール賞を受賞。 • トゥルニエとドゥルーズの関係 – ドゥルーズの級友であり、一時期は同じ建物に住んでいたこともある。 • 『フライデーあるいは太平洋の冥界』(Vendredi ou les Limbes du Pacifique) – トゥルニエの処女作。1967年刊。デフォーのロビンソンのプロットを踏 襲しながら、まったく異なる方向性の作品として再生させる。 – デフォーの『ロビンソン・クルーソー』が前提する近代的精神への徹底 した批判。 • • • • ヨーロッパ中心主義(植民地主義)への批判:ポストコロニアル的問題意識 道徳としての労働や分業への批判:68年的なテーマ 客観主義的自然観(モノとしての自然)への批判:自然の固有価値の考察 非正規的異性愛、トランスジェンダー – これらの特徴から、トゥルニエのこの作品は、現代のエコロジー的問題意識が一般に共 有される以前(あるいは、まさにちょうどその頃)に、このような問題を扱ったものだとも 14 いえる。 トゥルニエの『フライデーあるいは太平 洋の冥界』② • デフォーの『ロビンソン・クルーソー』とのあいだの決定的な違い。 1. 2. 3. お話の最後で、ロビンソン・クルーソーは、島に流れ着いた海賊を 見て、自分が島の生活のなかで捨ててきた考え方や目的を、彼ら が生きていることを認める。そして、元の世界でもはやロビンソンは 幸せに生きれないことを悟り、島に残る決断をする。 フライデーは、ロビンソンに助けられた最初こそ、奴隷の身分に甘 んじているが、決定的な出来事(火薬庫の爆破)をきっかけに、ま たそれ以前から間欠的に、自由に、無人島(スペランザと名付けら れる)の解放される想像力に任せて振舞うようになる。ロビンソンは、 この決定的な出来事に向けてゆっくりと変身を重ねてきたが、この 出来事を転機に、完全にかつての目的を捨てさり、フライデーの振 舞いの向かう先へと自らも向かうようになる。 デフォーのロビンソンは、28年間の島での生活の中で、その価値 観や考え方を揺るがせることはなく、むしろ『聖書』とともに、より堅 固な西洋的、ピューリタニズム的価値観を組み上げていく。それは、 西洋的価値観への疑いではなく、その絶対的優位性への確信を示 している。それにたいしてトゥルニエのロビンソンは、無人島の生活 のなかで、徐々に、西洋的価値観とは別の何かがあるのではない かという疑いを深め、それとともに彼の倒錯も深まっていく。 15 トゥルニエの『フライデーあるいは太平 洋の冥界』③ • ロビンソンの倒錯の系列 – 「脱出号」の作成の失敗による絶望→泥沼で豚とともに泥に戯れ、忘 我の境地へ至る。 – 家屋、畑、家畜、法典、時間(水時計)などの作成による島の自然の 管理・組織化→時間の間隙(水時計の停止時)に現れる島の自然の 固有価値。島の中央にある鍾乳洞での母性的大地への沈滞。母とし てのスペランザ。 – さらなる過剰な生産、フライデーの奴隷化→妻としてのスペランザ、 島(土)との交配、マンドラゴラという娘たち。 – 火薬庫の爆発(火)、フライデーの解放→ロビンソンの後景化、フライ デーの山羊の王アンドアールとの決闘と、その死体を使った大凧とア イオロス琴の作成。空と太陽への交接的欲望。大地から空へ。 • 今回はやらないが、ロビンソンの倒錯的想像力を、バシュラールの四元素的 想像力論(火、土、水、空)で分析することができるだろう。 • これらの倒錯の系列と同期するように、スペランザ、すなわち島そ のものが、徐々に変身を遂げ、自らを隆起させていく。 16 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」① • 「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」 (« Michel Tournier et le monde sans autrui »)は、ドゥルーズの『意味の論理学』(Logique du sens)の補遺「幻影と現代文学」に含まれる。オリジナルは、「他 者の理論」(ミシェル・トゥルニエ)(« Un théorie d’autrui » (Michel Tournier), Critique, 1967として公刊された『フライデーあるいは太 平洋の冥界』についてのドゥルーズによる書評である。ここでは、 『意味の論理学』に収められているテキストを典拠に議論を進める。 • ここでの他者の理論は、当時知られはじめていたラカン派の精神 分析が形成していた構造主義的な他者論を参照している。ただし、 ドゥルーズの独自の解釈がかなり入り込んでおり、必ずしもラカン に忠実なわけではない。69年にラカン派であったがそこを離れる ガタリと出会い、ラカン派の批判でもある『アンチ・オイディプス』を ともに著すことで、ラカン派の他者論解釈からはのちに、一定の距 離を取ることになる。「他者の理論」がドゥルーズによって書かれた のは、この距離が明らかになる直前である。また、この「他者の理 論」には、同時に書かれていた博論である『差異と反復』の図式、 特に対象形成に関する理論が入り込んでいることも注意が必要。 17 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」② • 島の新たな規定:四元素の二つの形象のあいだの抗争の 境界ないし場所としての島 – 「大地(土)terreと空気(空)aireが演じる役割は、特定の元素 élémentの役割であるよりは、完全に対立する形象figuresの役 割であって、この形象のそれぞれが四元素(土、空、水、火)を 結び合わせているということが指摘されよう。しかし、大地は、 四元素を閉じ込め、縛り付け、またそれを諸物体の深層のなか で包蔵するのだが、その一方で空cielは、光と太陽とともに、そ れらを自由で純粋な状態にもたらし、表面の一つのエネルギー を、一つのしかしながらそれぞれの元素に固有であるエネル ギーを形成するために、各元素の制限からそれらを解放する。 したがって、地上のterrestre火が、水が、空が、土があるととも に、大気のaériensあるいは天空のcélestes土、水、火、空もま た存在している。大地と空cielの抗争があるのであって、その 賭け金は、全元素の監禁か解放かである。島はこの抗争の前 線、あるいは戦場である」(LS, p.351 / p.226:後者は文庫版の 翻訳:小泉訳を参照しつつ再訳した。) 18 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」③ • 起源から目的へ:トゥルニエの小説を、「無人島の原因と 理由」で立てられた問いへの一つの文学的返答として読 む可能性 – トゥルニエの答えは、ドゥルーズの問いそのものをずらすもの である。第二の起源が問われるためには、偽りの起源の再構 成(デフォーのロビンソン)ではなく目的の危険な逸脱(倒錯の 系列)が行われなければならない。 • すなわち、西洋近代における目的(労働、生産、階層秩序、コミュニ ケーション)にかんして逸脱がない限り、起源はその目的に準じて不 可避的に捏造される(デフォーのロビンソンの起源の捏造:植民地運 動一般に共通する起源の捏造:アメリカ)。 – しかし、この目的の逸脱はいかにして行われるのか。この新た な実践的問いにたいするトゥルニエの答えが、彼の「他者の理 論」によって、つまり他者の喪失という実験によってなされると いうものであった。 19 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」④ • 他者と他者構造 – 他者を最初に哲学の問題にしたのは、フッサールであるが、 ドゥルーズはそれに直接言及せず、それをもとにしているサル トルの他者論にたいして批判的に言及している。このことは、 『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』の記述をもとに推測すれば、 若かりし頃のドゥルーズとトゥルニエの共通の哲学的経験とし てサルトルの哲学があったからではないかと推測される。 – ドゥルーズによるサルトルへの批判の要は、他者を自己の対 称的存在として(つまり私にとっては対自的対象である一方で、 それによって私を対象ともしうるような何かとしての他者)理解 するのでは不充分であり、構造としての他者と、その構造にお いて位置をしめるものとして具体的な他者を区別する必要があ ることを指摘することにある。 • むしろ「他者構造」は、「超越論的自我」とかかわりながら間主観性の 領野を開くものとしての「超越論的他者」と比較されるべきかもしれな い。 20 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」⑤ • 他者構造とは何か 「他者は、私の知覚の場にある対象ではないし、私を知覚する主体でもない。 これは第一に知覚的場の構造であり、それなしには全体のなかでこの場が、 それがなすように機能しなくなるようなものである。・・・かくして絶対的構造と しての《アプリオリな他者》Autrui a prioriがそれぞれの場で構造を充足する 諸項としての他者の相対性を基礎づけるのである。しかし、この構造とは何 か。それは可能なものの構造である。怯えた顔は、怯えさせる可能な世界の 表現あるいは世界における怯えさせるまだ見ぬなにものかの表現である。 可能的なものは、ここでは存在しない何ものかを指示する抽象的なカテゴ リーではない、ということを理解しなければならない。表現された可能な世界 は完全な仕方で現存しているのだが、それはそれを表現するものの外では (現実的には)現存していないのである。恐れた顔は恐れさせるものと似て いない。前者は後者を含意し、表現するものに表現されるものを置き入れる ある種のねじれの中で、何か他のものとして恐怖させる事物を包み込む。」 (LS, pp.356-7 / 235) 「要するに、構造としての他者とは、《可能な世界》の表現であり、表現するも のの外ではいまだ実在しないと捉えられる表現されるものである」(LS, p.357 / p.236) 21 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」⑥ • 他者構造の第一の効果 – 「他者の現前の第一の効果は、知覚の空間と、知覚のカテゴリーの 配分に関わっていた」(LS, p.361 / 241) • 客観的対象の可能的なパースペクティヴの連続的な綜合を可能にするもの としての他者構造。これによって対象は、はじめて客観的な対象としての実 在性を付与される。蓄積と所有の基礎。 – 「他者の第二の効果は、おそらくより深いものであり、時間に、そして 時間の次元に、すなわち時間における先行者と後続者の配分に関 わっている」(LS, p.361 / 241) • 対象と意識の分離。すなわち、対象が客観的な対象となるとき、それ以外の ものは私だけが手にした印象として、私の意識における過去となる。むしろ私 の意識とはこの過去のみからなると言える。なぜなら、〈私の〉過去である限 り、それは〈私の〉意識と結びつけられなければならず、そうである限り、それ は過去となった「私にはそう見えたもの」の時間的総合だからである。反対に そうでないものは、他者構造、つまり可能的な世界によって支えられた客観 的な対象となる。それによって、「かつて」(私が手にした印象)と「現に」(ある 対象)とが区別される。 – トゥルニエの他者分析に依拠している。「主観と対象が共存することはありえない。主観 と対象は当初はリアルな世界に統合される同じ事物であったが、ついで屑として投げ出 されたからである」 22 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」⑦ • 他者構造の喪失の効果 – 第一の系列:絶望と泥だまり • 神経症névroseの時期:「そこでは、他者構造structure Autruiがまだ機能して いるが、それを充足し実現する人物がもはやいない」(LS, p.364 / 245)。「他 者構造は実在する存在によってもはや占められていないので、それだけいっ そう厳格に機能してしまう。他人autresはもはや構造によって嵌め込まれてお らず、構造は空虚に機能し、それだけ押しつけがましく機能する。」(LS,. P.364 / 245) – 第二の系列:過剰生産と母なる大地への埋伏 • 分裂病*psychoseの時期:「構造が衰えるときに他者の現前の効果を維持す るために努力が費やされる。しかし、逸脱anomalieが感じられ始める。」(LS, p. 365 / 246) • 「この熱狂は、労働において、堆積と集積を通して進行する消費不可能な分 裂病的対象の生産において現出する。」(LS, p.365 / 247) • 「精神病者psychotiqueは、人間の名残の秩序を設立することで、実在する他 者の不在を緩和し、また超人的血統を組織することで構造の解体を緩和する ことを試みるのである。」(LS, p. 366 / 247) – 「他者構造のトラブルは、もはや祓うことのできない底-無しの攻撃的回帰としての、深 層の失調、深層の恐慌を含意する。一切が意味を失い、一切が《シミュラークルと遺物》 になる。」(LS, p. 366 / 247-8) 23 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」⑧ • 他者構造の喪失の効果 – 第三の系列:シミュラークルsimulaclesから幻影 phantasmesへ:「大いなる健康」期 • 前提となるイマージュ論(ベルクソン-クロソフスキー) – ベルクソンのイマージュ一元論:脳-身体はイマージュの後に形成され る。 • コピー/モデル:モデルとしてのイデア(=深層)、そのコピーとし ての可感的な現実存在。 • シミュラークル:モデルを前提する場合は、コピーのあいだの誤差 としての差異。モデル(=深層)を前提しない場合は、収束すべき 極限のないイマージュの差異の戯れ。純粋な差異としてのイマー ジュ。 • 幻影:身体という迂回路を介さない純粋な差異としてのイマージュ。 他者構造の喪失によって、「見る私」と「見られる対象」との区別 が、つまり時間秩序が失われ、すべてが永遠の現在になる。そこ におけるイマージュは、深層との距離によって評価されることなく、 すべてが表面において、その燐光(固有価値)を浮かび上がらせ る。ロビンソンの「大いなる健康」(ニーチェ的健康)。 24 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」⑨ • フライデーの役割:他者の分身、他者の他者を表現するも のであること – 他者構造の喪失の後にはじめて訪れる、他なる他者、「他者の 分身」(「他者なき世界」を実現する他者)を表現するものとして のフライデーが登場する。 – 「フライデーは、真であると前提されたある他なる世界を、すな わち唯一の本物の還元不可能な分身を指し示すのであり、こ の世界の上に、フライデーではもはやなく、フライデーではあり えない他者の分身を指し示すのである。」(LS, p. 368 / 250-1) – 「他者なき世界を創設すること、世界を修正することは、迂回路 を避けることである。すなわち、欲望を純粋な《原因》、すなわ ち諸元素Élemntsへと結びつけるために、欲望をその対象から 切りはなすこと、身体を介する迂回路から切りはなすことであ る。」(LS, p. 369/ 252) – 「本能は太陽的になった」(LS, p.369 / 252) • 太陽的=空(最初の対立する形象としての土と空の対比を参照) 25 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」⑩ • 他者論のまとめ – 「この意味で私たちが示そうと試みてきたのは、他者がどのよ うに知覚の場の総体を条件づけ、知覚された対象のカテゴリー および知覚する主体の諸次元のこの場への適用を条件づけ、 最後にそれぞれの場でこの他者の配分を条件づけているのか ということである。」(LS, 370 / 253) – 「欲望でさえも、対象の欲望であれ他者の欲望であれ、この構 造に従属している。私は、可能的なものの様相で他者によって 表現されるものとしてのみ、対象を欲望するのである。また、私 は、他者が表現する可能世界だけを、他者の内に欲望するの である。」(LS, 370 / 253-4) – 「他者は、諸元素を土に、土を物体に、物体を対象に組織する ものとして現れ、対象・知覚・欲望を同時に統御し測量する」 (LS, p.370 / 254) • すなわち、「他者構造」は、諸元素を〈深層〉に監禁するものとして機 能する。 26 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」⑪ • 倒錯についてのドゥルーズの批判的理解① – 倒錯perversionの定義:性的満足の質的異常。 • 性対象の異常はinversion、性目標(欲望充足行動)の異常 はperversionと区別する。基本的に異性愛的性欲充足以外 の性対象および性目標が、倒錯の範囲になる。古典的な 精神分析に従えば、発達段階における何らかの障害によっ て、性欲望の正常な統制に失敗したことに原因があるとさ れる。 • ドゥルーズの理解:倒錯は、他者を必要としているのではな く、反対に他者構造が失われたところで初めて可能になる。 他者構造が失われることで、欲望が置換され(他者構造か ら倒錯構造へ)、欲望の原因が対象から解放され、性差を 失効させ、他者を不要とするところに、倒錯の可能性が開 かれる。 27 ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他 者なき世界」⑫ • 倒錯についてのドゥルーズの批判的理解② – ドゥルーズにおいて、正常性と倒錯性は(存在論的に?)転倒してい る。対象から解放され、元素的なものと直接的に結びついた欲望こそ が、原初的な欲望であり、これにたいして他者構造の確立によって、 欲望が身体を介し、また対象を原因とする欲望へと構造化されること で、正常性が実現される。そして、倒錯が倒錯していると言われるの は、これが正常化体制のなかで機能するべき他者構造の失調を伴っ ているからである。したがって、それが倒錯的であるためには、他者 構造の現前と、それとの差異化が不可欠である。つまり、他者なき世 界とは、倒錯構造を伴う世界であるが、他者構造を持たないがゆえ に、他者構造との差異において現れる通常の倒錯性を満たさないよ うなものだということになる。 • 純粋な倒錯としての、太陽との交接。「わたしのウラニア的愛は、一日に、一 夜に備えて力をわたしにあたえてくれる生命力で逆にわたしをふくらます。も しこの太陽の性行をどうしても人間の言葉に翻訳しなければならないとしたら、 それは女性の種族の下にあって、私を決定するのにふさわしい空の花嫁の ようなものである。しかし、このような神人同型同性論は誤った解釈である。 実際は、フライデーとわたしは、性の違いを乗り越えて、至高の段階に到達し たのだ。そして今、フライデーは、ヴィーナスと同化でき、そしてやはりわたし のほうは、人間の言葉で言えば、あの〈巨大な天体〉の受胎に向かって開か れているということができるのだ。」(『フライデー』榊原晃三訳、p.184) 28 まとめ① • 「他者なき世界」は、目的の逸脱(非倒錯的倒錯)のた めの必要な条件である。 • 「他者なき世界」において、はじめて目的の逸脱、すな わち真の意味での「第二の起源」、「再-開」が可能に なる。 • すなわち、「他者なき世界」とは、他者構造の喪失に よって、「無人島」の元素的な神話、すなわち「幻想」を 回復した世界である。 • デフォー的ロビンソンとその「分身」としてのトゥルニエ 的ロビンソンの間の関係は、他者構造の有無、すなわ ち「完全に対立する形象」としての「土」と「空」の対抗 関係を表すものであり、また「島」とはこの「分身」への 変身を賭けた闘争の場であるというドゥルーズ的規定 に対して、意味を与えるものである。 29 まとめ② • 考えられる応用的展開 – 他者構造をもつ世界と他者なき世界という対図式の島嶼文化分析へ の応用 • 重要なのは、この対を静的に、あるいは対象志向的にとらえるのではなく、可 変的で動的な図式としてとらえること。あるいは、この両極のあいだの揺らぎ によって文化的多様性の産出過程を理解すること。島嶼をこのような揺らぎ の場としてとらえること。 – すくなくとも「他者なき世界」を、「他者構造をもつ正常で唯一の世界」 の手前におくことで、最初に問題にしたような近代的な思考図式を、 「他者構造の現前によって限定された状況」として批判することを可 能にしている点で評価することはできる。 • より具体的な検討の方向性として、人類学者のヴィヴェイロス=デ=カストロ が提唱している「多自然主義」の立場との比較検討が求められるが、それは 今後の課題としたい。 – 漂流体験の体験構造を、以上のような他者論の観点から再検討する ことの可能性 • 漂流文学(漂流記)一般の作品分析およびそこから見える「海の論理」の検 討。(cf., 岩尾龍太郎、『江戸時代のロビンソン』、新潮文庫および『ロビンソン 変形譚小史』、みすず書房) 30 参考文献 • Deleuze, Gilles 1969, « Michel Tournier et monde sans autrui », Logique du sens, Éditions de Minuit, pp. 350-372. 小泉義之訳 2007年、「ミシェル・ トゥルニエと他者なき世界」、『意味の論理学』、河出書房新社、pp. 225259。 • Deluzue, Gilles 2002, « Cause et raisons des îles désertes », édition préparée par David Lapujade, L’îles déserte et autres textes –textes et entretiens 1953-1974, Les Éditions de Minuit, pp. 11-17. 前田英樹訳 2003 年、「無人島の原因と理由」、『無人島 1953-1968』、河出書房新社、pp. 13-22。 • ミシェル・トゥルニエ、榊原晃三訳 2009年、「フライデーあるいは太平洋の 冥界」、『世界文学全集 II-09』、河出書房新社、pp. 3-204。 • ダニエル・デフォー、増田義郎訳・解説 2010年、『完訳 ロビンソン・ク ルーソー』、中央公論新社。 • 岩尾龍太郎 2000年、『ロビンソン変形譚小史―物語の漂流』、みすず書 房。 • 岩尾龍太郎 2006年、『江戸時代のロビンソン 七つの漂流譚』、新潮文 庫。 31
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