スキゾフレニーのラカン的理解 松本卓也(自治医科大学精神医学教室) アウトライン 1,はじめに: ラカンの「スキゾフレニー」概念をめぐる3つの注意点 2,50年代ラカンのスキゾフレニー概念「象徴的なものがすべて現実的である」 3,60年代ラカンのスキゾフレニー概念「イロニー」 4,70年代ラカンのスキゾフレニー概念「ディスクール分裂病」 5,『アンチ・エディプス』とスキゾフレニー 6,現代ラカン派のスキゾフレニー概念:享楽の回帰のモードと経過論 7,まとめ はじめに:注意点① ラカン派でいうところのスキゾフレニーは、現代の精神医学のなかで「統 合失調症schizophrenia」と呼ばれるものと同じものではない フロイト=ラカンは精神病の下位分類としてパラノイアとスキゾフレニー を大別 彼らのいう「パラノイア」とは、症例シュレーバーのような「妄想型統合 失調症」を含む妄想性の精神病のこと 彼らの言う「スキゾフレニー」とは、妄想型以外の統合失調症であり、お おむね「破瓜型統合失調症」を中心とした幻覚優位の解体型の精神病を指 すもの ジョイスの娘ルチアが「一般的にスキゾフレニーと呼ばれるもの」 (S23) はじめに:注意点② スキゾフレニーは精神病の下位分類 精神病そのものではない コレット・ソレール(2008)が指摘するように、ラカンが単数形で「精神病 la psychose」、あるいは「狂人la folie」という言葉を用いるとき、それは パラノイアのことを指している はじめに:注意点③ ラカンはスキゾフレニーを自閉症と同じ、あるいは類縁とみていた(S1、 75年のコロックなど) 精神医学のなかで自閉症が統合失調症から明確に切り離される70年代後半 には、ラカンはすでに人生の晩節に至っており、スキゾフレニー(破瓜型 統合失調症)と自閉症をまったくの別物として捉える視点をもちえなかっ た 現代ラカン派のなかでスキゾフレニーと自閉症が明確に切り離されるのは、 1987年にトゥールーズで開催されたコロック「自閉症の精神分析的臨床」 以降のこと アウトライン 1,はじめに: ラカンの「スキゾフレニー」概念をめぐる3つの注意点 2,50年代ラカンのスキゾフレニー概念「象徴的なものがすべて現実的である」 3,60年代ラカンのスキゾフレニー概念「イロニー」 4,70年代ラカンのスキゾフレニー概念「ディスクール分裂病」 5,『アンチ・エディプス』とスキゾフレニー 6,現代ラカン派のスキゾフレニー概念:享楽の回帰のモードと経過論 7,まとめ 50年代ラカンのスキゾフレニー論① 1950年代のラカンは、主体形成のプロセスを次の2つの段階に分けて考え ていた 第1段階は、原初的象徴化symbolisation promordialのプロセスである。母が子供 の前にあらわれたりいなくなったりすることは、現前と不在の二項対立として 把握され、象徴的なシニフィアンのセリー(原-象徴界)を構成する。ラカン はこれを「物の殺害meurtre de la chose」によって象徴symboleが現れるプロセ スと考える(E319)。 第2段階では、この原-象徴界を統御するものとして、「父の名」のシニフィア ンが導入される。こうして、通常の(すなわち神経症の)主体形成が完了する。 反対に、この第2段階において父の名のシニフィアンが導入されないことが 「父の名の排除」(パラノイア) 50年代ラカンのスキゾフレニー論② スキゾフレニーでは、第1段階の原初的象徴化のプロセスがうまく機能し ていない (Soler, 2008, p. 119) 原初的象徴化は、「物の殺害」という表現に示されているように、物(= 〈物〉das Ding)を語(=シニフィアン)で置き換えることによって、物 がもつ〈物〉性を捨象するプロセス スキゾフレニーではこのプロセスに障害があり、「物を殺害する」ことが できていない。その結果、スキゾフレニーの患者は、「語は物である」、 すなわち「象徴的なものはすべて現実的である」(E392)という世界のな かで生きることを余儀なくされる(Miller, 1993a) 50年代ラカンのスキゾフレニー論③ フロイトは、スキゾフレニー患者は「語を物のように扱う」と述べた (GW10, 298) あるスキゾフレニー患者は、恋人の男性とうまくいかなくなった後で、恋 人が「偽善者Augenverdreher」であるという言語表現から、「眼Augeが捻 れているverdrehen」という心気・体感症状をつくりだした(GW10, 296) このようなスキゾフレニーに独特の言語病理(象徴界と現実界のダイレク トアクセス)を、フロイトは「器官言語Organsprache」と呼んだ。 ピエール・ブリュノ(1992)の表現を借りるならば、スキゾフレニーでは 「言語の脱隠喩化démétaphorisation du langage」が生じている アウトライン 1,はじめに: ラカンの「スキゾフレニー」概念をめぐる3つの注意点 2,50年代ラカンのスキゾフレニー概念「象徴的なものがすべて現実的である」 3,60年代ラカンのスキゾフレニー概念「イロニー」 4,70年代ラカンのスキゾフレニー概念「ディスクール分裂病」 5,『アンチ・エディプス』とスキゾフレニー 6,現代ラカン派のスキゾフレニー概念:享楽の回帰のモードと経過論 7,まとめ 60年代ラカンのスキゾフレニー論① 1959年になると、「父の名」は神経症者にとっても精神病者にとっても存 在しないものと考えられるようになる(S6, 441)。すると必然的に、神経 症、パラノイア、スキゾフレニーのそれぞれの位置づけも変化する 象徴界を統御する「父の名」(=大他者の大他者)が存在しないというこ とは、象徴界は一貫性consistanceをもったものではなく、ひとつの穴 (S(A/))を内包した非一貫的=頼りがいのないinconsistantなものである、 ということ 60年代のラカン理論では、神経症、パラノイア、スキゾフレニーの違いは、 この象徴界の穴に対する態度の違いとして理解される 60年代ラカンのスキゾフレニー論② 神経症者は、象徴界の穴(S(A/))を直視せずにすますために、その穴を ファンタスム($◇a)というフィクションによって塞ぐ パラノイア患者は、この穴(S(A/))を妄想形成によって埋める。パラノイ アは非一貫的な象徴界(大他者)に対する自らの関係をあらたに発明しよ うとするのである(シュレーバーの妄想=世界の再-秩序化) スキゾフレニー患者は、パラノイアのように妄想形成を行うのではなく、 むしろこの穴にとどまり、象徴界の非一貫性inconsistanceを強調する。ス キゾフレニー患者にみられるこのような態度は「イロニーironie」と呼ば れる 60年代ラカンのスキゾフレニー論③ スキゾフレニー患者は「あらゆる社会的関係の根源に迫るイロニーを備え ている」(AE209) イロニーとは、「大他者は存在しないこと、社会的紐帯lien socialはその根 底において詐欺であること、みせかけsemblantでないようなディスクール は存在しないこと」を示す機能のこと(Miller, 1993a) 要するに、「神経症者は象徴界が一貫的なものとして存在しているかの ようにふるまっているが、実際にはそれはフィクションである」というこ と、すなわち象徴界の最終的な決定不能性(S(A/))を暴露するニヒリズム 的態度がイロニー 破瓜型統合失調症者の拒絶症。すべてのことに「いやです」と返答し、あ らゆる問いかけを拒絶する態度などから生まれた発想? 精神病者のニヒリズム(ヤスパース)? 60年代ラカンのスキゾフレニー論④ 「イロニーをしっかりと持つということは神経症の治癒に相当する」 (AE209)。神経症者に対する精神分析の機能とは、神経症者にイロニー を回復させること。なぜなら、分析の終結のためには、ファンタスムを横 断し、大他者の非一貫性に満足することによって、騙されない者nondupesになることが要請されるから (Miller, 2013) スキゾフレニーとパラノイアの違いは、前者が大他者の不在の場に留まる のに対して、後者が大他者の不在から出発し、妄想形成によって大他者に 対する関係を(再)発明することに求められる(Miller, 2004) この意味で、スキゾフレニーは「精神病の標準尺度mesure」(Zenoni, 2004)、 すなわち精神病のゼロ度であると言うことができる アウトライン 1,はじめに: ラカンの「スキゾフレニー」概念をめぐる3つの注意点 2,50年代ラカンのスキゾフレニー概念「象徴的なものがすべて現実的である」 3,60年代ラカンのスキゾフレニー概念「イロニー」 4,70年代ラカンのスキゾフレニー概念「ディスクール分裂病」 5,『アンチ・エディプス』とスキゾフレニー 6,現代ラカン派のスキゾフレニー概念:享楽の回帰のモードと経過論 7,まとめ 70年代ラカンのスキゾフレニー論① スキゾフレニーにイロニーの機能を認めるということは、通常の秩序(象 徴界)の正当性を相対化すること。神経症=正常という断定には何の保証 も与えられないことになる このようなパースペクティヴを、ミレール(1993a)は「妄想の普遍的臨床 clinique universelle du délire」と呼ぶ 70年代ラカンのスキゾフレニー論② 70年代のラカンは、「ディスクール」という概念をもちいて、妄想の普遍 的臨床について議論していた ディスクールとは、「社会を支配しているもの、言い換えれば言語langage の実践」(S17, 239)を分節化するために導入された概念であり、「あら ゆる主体の決定、そして思考の決定はディスクールに依存している」 (S17, 178)とされる。言うなれば、ディスクールとは、主体を特定の仕 方で規範化する装置である 「いわゆるスキゾフレニー患者le dit schizophrèneは、いかなる既成のディ スクールdiscours établisにも捉えられていないことによって特徴づけられ る」(AE474) 70年代ラカンのスキゾフレニー論③ スキゾフレニー患者は、ディスクールへの捕捉を拒絶するニヒリスト 「いわゆるスキゾフレニー患者le dit schizophrène」という言葉…「ディス クールを分裂schizeさせる者」? 「既成のディスクールとラカンが呼ぶものは、ノーマルな妄想délires normauxのこと」(Miller, 2004)であり、どのディスクールが「正しい」もの であるかは決定不可能 神経症者は多くの場合、身体の享楽をファルスというひとつの身体器官に 局在化することによって、過剰な享楽の氾濫から身を守っている 一方、スキゾフレニーは「象徴界という手段をつかって現実界から自らを 防衛することのない唯一の主体」(Miller, 1993a) アウトライン 1,はじめに: ラカンの「スキゾフレニー」概念をめぐる3つの注意点 2,50年代ラカンのスキゾフレニー概念「象徴的なものがすべて現実的である」 3,60年代ラカンのスキゾフレニー概念「イロニー」 4,70年代ラカンのスキゾフレニー概念「ディスクール分裂病」 5,『アンチ・エディプス』とスキゾフレニー 6,現代ラカン派のスキゾフレニー概念:享楽の回帰のモードと経過論 7,まとめ 『アンチ・エディプス』とスキゾフレニー① ラカンはドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体corps sans organe」という 概念が、スキゾフレニーにみられるような精神病のゼロ度を指し示してい るという点を評価しながらも、「器官がない」という点については同意す ることを避けている 「言語という棲み家を持つ動物にとって、そこに棲まうことは、おのれの 身体にたいして器官を構成することでもある」(AE474) 「言葉は存在の棲み家」であると述べたハイデガーと、言語を人間に生得 的な器官として捉えようとしたノーム・チョムスキー スキゾフレニー患者は、自らの身体に対して言語という器官を構成してい ない = 「器官なき身体」? 『アンチ・エディプス』とスキゾフレニー② 「器官なき身体というテーマが、スキゾフレニーと呼ばれるある特定のも のを解明するひとつの方法であるということは明らかです。その意味は、 スキゾフレニーでは言語が〔身体を〕侵食することに成功していないとい うことです。すなわち、やはり身体はそれほど器官なきものではないので、 そこには少なくとも言語であるような一つの器官がある、というわけで す」 (Lacan, 1981) スキゾフレニー患者には、最低限の言語器官がある フロイトの「器官言語Organsprache/langage d’organe」、あるいはスキゾフ レニーにおける「主人のシニフィアン〔S1〕の散乱と消滅」(Miller, 1993b) アウトライン 1,はじめに: ラカンの「スキゾフレニー」概念をめぐる3つの注意点 2,50年代ラカンのスキゾフレニー概念「象徴的なものがすべて現実的である」 3,60年代ラカンのスキゾフレニー概念「イロニー」 4,70年代ラカンのスキゾフレニー概念「ディスクール分裂病」 5,『アンチ・エディプス』とスキゾフレニー 6,現代ラカン派のスキゾフレニー概念:享楽の回帰のモードと経過論 7,まとめ 現代ラカン派のスキゾフレニー論① 50/60/70年代ラカンによる、父性隠喩/分離/ディスクールは、「器官-リ ビードの局在化の原理」であり、享楽をファルス的に正常化する原理 精神病では、これらの父性隠喩/分離/ディスクールによる規範化が成功 していない。そのため、発病後の精神病では、この過剰な享楽が回帰する (Miller, 1982) 「スキゾフレニーでは享楽は身体に回帰し、パラノイアでは享楽は大他者 それ自体に回帰する」 スキゾフレニー患者は、過剰な享楽の氾濫を身体において受け止める(陰 部を撫で回される、頭をもやもやしたもので覆われる、あるいは体のいた るところに電気が走る等。自体性愛的な態勢の回帰 パラノイアでは、過剰な享楽が大他者の場に氾濫する。何らかの妄想的大 他者が自分を享楽しようとする(シュレーバーの妄想) 現代ラカン派のスキゾフレニー論② ジャン=クロード・マルヴァルは、スキゾフレニーとパラノイアを分けて 考えない。彼によれば、精神病が経過のなかで取るさまざまな段階のひと つがスキゾフレニーであり、パラノイアであるとされる(単一精神病論) 困惑と不安に支配される精神病の初期段階がP0がスキゾフレニー(破瓜型 および緊張型統合失調症)に相当する マルヴァルの議論から考えると、スキゾフレニーは妄想形成にまで至らな い段階の精神病であると言える(Maleval, 2011, p. 144) 統合失調症を妄想指向型/幻覚指向型の2つに分類する小出浩之(1977)の 議論。小出は、緊張病を統合失調症の一病型としてではなく、世界秩序の 崩壊が起こるカオス的な「緊張病状態」として捉え、これを統合失調症の 純粋状態に据える → 精神病のゼロ度 まとめ ラカンのスキゾフレニー論は、50/60/70年代のそれぞれのラカン理論の パースペクティヴから理解できる 50年代:原初的象徴化と父の名(原初的象徴化の失敗) 60年代:大他者の大他者はない(イロニー) 70年代:ディスクール(既成のディスクールに捕らえられない者) 『アンチ・エディプス』に対するラカンの応答は、「器官なき身体」にも 言語という器官がないわけではないことを指摘するものであった 現代ラカン派では、享楽の回帰のモードと経過論の観点から、スキゾフレ ニーが論じられている 文献表 Bruno, P. (1992). Le dit - sur la schizophrénie. La Cause Freudienne, (22), 148–160. Deleuze, G., & Guattari, F. (1972). L’Anti-œdipe. Paris: Les Editions de Minuit. Lacan, J. (1981). Séance extraordinaire de l’Ecole Belge de Psychanalyse. Quarto, (5), 4–22. Lacan, J. (1982). Conférence à Genève sur « Le symptôme », 4 octobre 1975. Bloc Note de La Psychanalyse, 5, 5–23. Maleval, J.-C. (2000). La forclusion du Nom-du-père - Le concept et sa clinique. Paris: Seuil. Maleval, J.-C. (2011). Logique du délire. Rennes: Press Universitaire du Rennes. Miller, J.-A. (1982). La clinique lacanienne. Cours de 1981-1982 (inédit). Miller, J.-A. (1993a). Clinique ironique. La Cause Freudienne, 23, 7–13. Miller, J.-A. (1993b). Schizophrénie et paranoïa. Quarto, (10), 18–38. Miller, J.-A. (2004). L’invention psychotique. Quarto, 80/81, 6–13. Miller, J.-A. (2013). L’Autre sans Autre. Mental, (30), 157–171. Soler, C. (2008). L’inconscient à ciel ouvert de la psychose. Toullouse: Presses Universitaires du Mirail. 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