日本における伝統医学史研究 真柳 誠 (茨城大学人文学部教授) (北里研究所客員部長) 2003年3月13日 於 韓国韓医学研究院 日本医史学会(1) (Japan Society of Medical History) http://www.rc.kyushu-u.ac.jp/~michel/jsmh/ 〒113 東京都文京区本郷2-1-1 順天堂大学医 学部医史学研究室内 本年で結成104年 日本医学会の第一分科会に所属 会員数約1000名 入会の資格制限無し。医師・歯科医師・獣医 師・薬剤師・鍼灸師・看護師のほか、歴史研究 者・小説家等の会員も多い。 関連学会:歯科医史学会・獣医史学会・薬史 学会 日本医史学会(2) (Japan Society of Medical History) http://www.rc.kyushu-u.ac.jp/~michel/jsmh/ 年1回の総会、月1回の月例会(東京)を開催 機関誌『日本医史学雑誌』を年4回発行(内、1 回は総会抄録集) 日本各地の支部会も独自に活動(北海道・東 北・神奈川・名古屋・北陸・京都・関西・九州) 会員の研究分野は多彩:臨床各科、日本各地 域、世界各国(欧米・アラブ・印度・中国・台湾・ 韓国)、人物史、古医籍書誌等 伝統医学・医療史の研究が約半数 医学史関連機関(1) 順天堂大学医学部医史学研究室(酒井シヅ 客員教授) 北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究 部(小曽戸洋部長) 茨城大学人文学部中国科学史研究室(真柳 誠教授) 京都大学人文科学研究所中国科学史部門 (武田時昌教授) 国際日本文化研究センター共同研究「身体観 の歴史」(栗山茂久助教授) 医学史関連機関(2) 日本歯科大学新潟歯学部 医の博物館(新 潟県) 富山医科薬科大学和漢薬研究所 民族藥物 資料館(富山県) 内藤記念 くすり博物館(岐阜県) 中富記念 くすり博物館(佐賀県) 富山市売薬資料館(富山県) 武田科学振興財団 杏雨書屋(大阪府) 日本における伝統医学史研究(1) 宇津木昆台(1779-1848)『日本医譜』 多紀元胤(1789-1827)『(中国)医籍考』 森立之(1807-1885)ら『経籍訪古志』『留 真譜』 浅田宗伯(1815-1894)『皇国名医伝』 富士川游『日本医学史』(1904)『日本疾 病史』(1912) 日本における伝統医学史研究(2) 山崎佐『日本疫史及防疫史』 (1931)『日 本医事法政史の研究』 深川晨堂『漢洋医学闘争史』(1934) 小泉榮次郎『日本漢方医薬変遷史』 (1935) 藤波剛一『医家先哲肖像集』 (1936) 三木栄(『朝鮮医籍考』(1932) 『朝鮮医 学史及疾病史』 (1948)『朝鮮医事年表』 (1985) 日本における伝統医学史研究(3) 日本学士院『明治前日本医学史』(195557) 岡西為人『宋以前医籍考』 (1958)、『中 国医書本草考』(1974)、『本草概説』 (1977) 石原明『日本の医学』(1959) 矢数道明著『明治122年漢方医学の将 来と変遷。漢方略史年表』(1975)、 『近 世漢方医学史』(1982) 日本における伝統医学史研究(4) 日本医史学会『図録日本医事文化史料 集成』(1977) 大塚敬節・矢数道明『近世漢方医学書集 成』(1979-84) 新村拓『古代医療官人制の研究』 (1983) 、 『日本医療社会史の研究』(1985) 渡辺幸三『本草書の研究』(1987) 宗田一『図説日本の医療文化史』(1989) 日本における伝統医学史研究(5) 真柳誠・小曽戸洋『和刻漢籍医書集成』 (1988-92) 石田秀実『中国医学思想史』(1992) 真柳誠『日本版中国本草図録』(1992-93) 小曽戸洋『中国医学古典と日本 』(1996)、 『日本漢方典籍辞典』 (1999) 近年の伝統医学史研究(1) 北里研究所東洋医学総合研究所 医史学研究部(1) 部長:小曽戸 洋 客員部長:真柳 誠 顧問:大塚 恭男 主任研究員:町 寿三郎 非常勤研究員:友部 和弘 助手:1名 客員研究員:猪飼 祥夫・宮川 浩也・長野 仁・松木 きか 近年の伝統医学史研究(2) 北里研究所東洋医学総合研究所 医史学研究部(2) 全漢方医家の伝記・資料の蒐集・整理 貴重漢方医薬書の蒐集・補修 全漢方医薬書書誌情報の蒐集・整理 中国・韓国伝統医家・医薬書の情報蒐 集・整理 上記蒐集資料の研究・発表・刊行 近年の伝統医学史研究(3) 日本内経医学会 新会長・宮川浩也を中心に、荒川緑・岩 井祐泉・加藤ゆたか・金古英毅・小林健 二らを運営委員に、40代を中心とした若 手鍼灸家約50名が集う 『内経』の研究とともに、小曽戸・真柳の 協力で、善本古医籍の影印出版、古医 籍関係の中国語文献翻訳出版・電子文 献の作製と普及を行う 真柳の伝統医学史研究(1) 真柳の伝統医学史研究(2) 真柳の伝統医学史研究(3) 中国を中心としたアジア(日本・韓国・台 湾・ベトナム・モンゴル・チベット)の医薬 文献を研究対象とする 各国医薬書の書誌情報を計量史学の 手法で解析、研究する これにより各国の医学史・本草史・医薬 文化交流史を客観的に把握する さらに各国伝統医学の形成史と特徴を 浮かび上がらせる 江戸期、中国医薬書の渡来記録回数 1601-10 1611-20 1621-30 1631-40 1641-50 1651-60 1661-70 1671-80 1681-90 91-1700 1701-10 1711-20 1721-30 1731-40 1741-50 1751-60 1761-70 1771-80 1781-90 91-1800 1801-10 1811-20 1821-30 1831-40 1841-50 1851-60 1861-70 醫方等 本草 傷寒 金匱 內經 針灸 痘疹 0 20 40 60 80 100 120 140 160 180 200 江戸期、中国医薬書の和刻回数 1601-10 1611-20 1621-30 1631-40 1641-50 1651-60 1661-70 1671-80 1681-90 91-1700 1701-10 1711-20 1721-30 1731-40 1741-50 1751-60 1761-70 醫方等 1771-80 1781-90 本草 傷寒 91-1800 1801-10 金匱 1811-20 1821-30 1831-40 內經 針灸 1841-50 1851-60 痘疹 1861-70 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 中国医書 和刻書 卷數 明 明 元 漢 漢 宋 元 元 明 金 和刻と渡来の記録上位10書 :和刻數(前 中 後) 醫方大成論1卷 :26 (22 4 万病回春8卷 :18 (15 3 十四經發揮3卷 :17 ( 7 6 傷寒論10卷 :15 ( 1 4 金匱要略3卷 :14 ( 2 5 運氣論奧3卷 :13 (11 2 格致餘論1卷 :13 (11 2 難經本義2卷 :12 ( 9 2 醫學正傳或問1卷 :10 ( 8 2 素問玄機原病式1卷:10 ( 8 2 0) 0) 4) 10) 7) 0) 0) 1) 0) 0) 渡来書 卷數: 明 清 明 明 清 清 唐 清 明 明 記録数(前 中 後)中國版 本草綱目52卷 醫宗金鑑92卷 薛氏醫案10-24種 景岳全書64卷 錦囊秘録49卷 張氏醫通16卷 千金要方30卷 瘍醫大全40卷 醫宗必讀10卷 證治準繩44卷 :34 :31 :28 :26 :23 :22 :18 :18 :17 :17 (3 24 (0 6 (2 21 (0 18 (0 21 (0 20 (4 10 (0 0 (1 14 (2 13 7) 25) 5) 8) 2) 2) 4) 18) 2) 2) 55版 28版 18版 45版 11版 10版 18版 12版 50版 11版 中国古医籍所在模式図 大陸佚存書種数 計195(170) ( )内は半佚書・ 輯佚書・偽書・未 詳書を除いた数 4(4) 大陸 約1万 その他 約200 日本 約1千 台湾 約500 3(2) 153 (137) 19(11) 16(16) 結論(1) 1 中国医書の渡来記録は804書目について1917回 あった。とくに「内経」系統は原典と少数の注釈書がく り返し渡来し、逆に「痘疹」系統では様々な書が次々と 渡来していた。こうした傾向の背景に、中国で流行し、 かつボリュームがあって高値で売れる書を、中国船主 が数多く舶載した現象を認めた。 2 中国医書の和刻は314書目について680回あった。 年代推移では和刻回数の約半数が1690年以前の前 期にあり、中期に急激に減少し、さらに後期に減少し ていた。当現象は中期からの医学の日本化と日本医 書の出版増加で、中国書の需要が減少したことの反 映である。 結論(2) 3 分野別の和刻では、「内経」「針灸」系統が前 期に集中して普及していた。当時の日本人に とって「針灸」は技術的に、「内経」は内容が難 しかったためである。注釈本が普及した40~ 50年あと、単経本が和刻されていたのも同理 由による。中後期にはこれら難点が克服され、 両分野の書は需要も普及も激減した。一方、 「金匱」系統は単経本に需要があり、後期に普 及している。「痘疹」系統は中後期に需要が あったが、普及程度は小さかった。。 結論(3) 4 全体では渡来書の約40%が和刻され、積 極的に中国医学を受容していた。それも渡来 から和刻まで50年以内が46%と高率を占め、 この和刻にいたる速度は江戸の早期ほど早い。 和刻のベストセラーは江戸前期から3巻以内 の薄い書で、中国の流行書や最新書とは無関 係だった。本来の大部な書から抜粋し、小部 な書に再編した和刻本も全江戸期にある。こ れら前期からあった傾向に、大部な書が流行 した中国とは異なる、日本的な縮み指向が窺 えた。中後期からの仲景医書の流行にも当要 因が通底している。 結論(4) 5 明以降と江戸期に刊行・筆写された中国医書で、 いま日本にあって中国にない佚存書は167書目にの ぼっていた。そのかなりは江戸期の渡来と思われる。 特異な例は佚存書の和刻版11書で、これらは江戸前 期からいわゆる珍本・孤本としての価値が認められ、 和刻された可能性が考えられた。 6 明治以降に中国へ還流した中国医書は日本刊写 本で296書目、伝入した日本医書は日本刊写本で751 書目で、いま中国にある日本旧蔵の医書はおそらく 4000点以上になろう。興味深い現象では、和刻版木ま で中国に輸出されていた。それで印刷された中国医 書は九書、日本医書は14書、朝鮮医書は2種をかぞ えた。 結論(5) 7 以上のように日本は全江戸期をとお して、独自の視点で中国医書そして医学 を受容し、同時に日本化していた。この 過程で蓄積された文献や研究は厖大な 数にのぼる。そして一部が明治以降に 日本を離れ、かつての恩にようやく報い たといえる。
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