中東・イスラーム世界史の 卒業論文作成に向けて

長谷部史彦
紙数では表面に触れるだけで終わってしまうでしょう。私
に手引しようとするのはどうみても無謀であり、限られた
進月歩に深まっていますので、そのすべてに関して効果的
もいえます。それはさておくとしても、各地域の研究は日
いう大雑把なくくり方自体が大きな問題をはらんでいると
どっており、近年は世界的にみても独創的な研究成果が少
を機に急激に成長し、以後、研究者の数は増加の一途をた
〇年代のオイル・ショックやイラン・イスラーム革命など
す。日本における中東・イスラーム世界史研究は、一九七
けで卒論が書けると思わないでください﹂ということで
皆 さ ん に ま ず い つ も お 話 し す る の は、
﹁日本語の文献だ
日本語の研究文献の捉え方
込んだ道案内を試みてみたいと思います。
中東・イスラーム世界史の
卒業論文作成に向けて
卒業論文の作成について、東洋史学全般をまとめてここ
で扱うことができればよいのですが、その対象地域は、東
は中国を中心とした東アジアから、西は中東まで、あまり
は中世・近世のアラブ史を﹁専門﹂としてきましたので、
なくありません。しかし、日本史やヨーロッパ史に比べれ
にも大きな面的広がりを示しています。実は﹁東洋史﹂と
以下では中東・イスラーム世界史に的を絞って、多少突っ
三色旗 2010.7(No.748)
を得ません。少なくとも日本では未だに、比較的、
﹁若い
ば、まだまだ日本語での研究蓄積は見劣りするといわざる
そうすれば、瞬く間にかなり良い方向へと研究が進んで行
れたものから手当たり次第に読んでみるとよいでしょう。
田のメディアセンターなどに足を運んで調べ、興味を引か
くことになります。なお、一九八八年以前に公刊された和
学問﹂なのです。
中東・イスラーム世界に関する日本語の研究文献に関し
て は、 日 本 中 東 学 会 の ホ ー ム ペ ー ジ︵
の検索﹂
︵
http://61.197.194.9/Database/CA_ISLM_QueryInput.
http://wwwsoc.nii. 文の研究文献については、東洋文庫のホームページで公開
されている﹁日本における中東・イスラーム研究文献目録
︶ に あ る﹁ 日 本 に お け る 中 東 研 究 文 献 デ ー タ
ac.jp/james/
ベース一九八九 二
―〇一〇﹂を利用すれば、一九八九年か
︶ が 有 効 で す。 東 京 都 文 京 区 本 駒 込 に あ る 東 洋 文 庫
html
は、アジア最大の東洋学図書館ですが、そのほかにやはり
ら現在までについてかなり網羅的に検索することができま
す。しかし、テーマによっては数点、あるいは全くヒット
そして、重要と感じた研究論文に出逢ったら、たくさん
膨大な関連図書を集めた専門図書館に、東京大学東洋文化
おける第一人者である栗田禎子氏の業績のかなり重要な部
付 い て い る 典 拠 や 説 明 の﹁ 注 ﹂ を 大 事 に し て く だ さ い。
しない場合さえあります。例えば、高校の世界史教科書で
分をこの簡単な一作業で知ることができるわけです。一九
﹁芋づる式﹂という表現がかつて使われましたが、
﹁注﹂も
研究所や東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
八〇年代初めに中東研究に入門した身としては、本当に便
丁 寧 に 読 み、 そ こ に あ る 情 報 を 逃 さ な い よ う に す る こ と
帝国主義に抗った民族運動としてしばしば言及されるスー
利になったと実感します。続けて、著者名﹁栗田禎子﹂で
で、その論文に先行する重要な研究や史料︵一次資料︶を
の図書館があります。これらも活用できれば、かなり本格
検索すると、一一六件も出てきました。ナイル流域世界の
いくつも手繰り寄せることができるからです。そして、一
ダンの﹁マフディー運動﹂でタイトル検索を試みてみます
深奥からイギリスの帝国主義者たちを震撼させたマフデ
度見付けた関連文献は、忘れないように自前の﹁参考文献
的になってきたといえます。
ィー運動について卒論を書きたい、ということであれば、
目録﹂にしっかりと蓄積しておきましょう。
と、八件のみの成果でした。しかし、当該テーマの日本に
この一一六件の中から関連すると目される文献を選び、三
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オンライン版も使えます。事項・地名・人名などを調べる
際にとても役立ちますし、それぞれについて重要な参考文
なり摑まえることができますが、前述のとおり、テーマに
以上のような作業から、日本語の研究論文・研究書をか
て、日本語の事典としては、
﹃岩波イスラーム辞典﹄︵岩波
アセンターで書籍のかたちでも読むことができます。そし
一流の執筆陣によるこの百科事典は、もちろん三田メディ
英文研究文献へのアプローチ
よ っ て は、 日 本 語 の 学 術 的 研 究 が 驚 く ほ ど 手 薄 な こ と が
書店、二〇〇二年︶と﹃新イスラム事典﹄︵平凡社、二〇
献が数多く示されていて本当に利用価値の高い事典です。
間々あります。たとえばアラブ地域に関する専門研究に関
〇二年︶が双璧です。前者の方が項目数も多く、より専門
そして、こうしたいわゆる﹁道具類︵工具類︶﹂︵事典、
していいますと、ナポレオンの﹃エジプト誌﹄以来、フラ
用語集、ハンドブック、文献目録、年代換算表、学術誌、
的ですが、歴史に関しては後者の項目記述にも優れたもの
英語の文献へと手を伸ばすだけで、視界はかなり開けてき
地図など︶については、近年たいへんに便利な手引書が出
ンスのオリエンタリスト︵東洋学者︶たちによる分厚い研
ます。英語文献については、前述した日本語の重要文献か
世界研究マニュアル﹄︵名古屋大学出版会、二〇〇八年、
が 少 な く あ り ま せ ん。 い ず れ も コ ン パ ク ト な 事 典 で す の
らの﹁芋づる式﹂も有効ですが、イスラームに関連する総
三八〇〇円+税︶です。この本を一冊思い切って入手され
究蓄積があり、仏語文献も大きな位置を占めていますが、
合的な文献目録である Index Islamicus
をぜひ用いるべきで
す。一九〇六年以降のヨーロッパ諸語による文献を網羅す
ることをお勧めします。あるいは、重要部分をコピーして
で、どちらかは常備するとよいでしょう。
るものであり、三田メディアセンターでもみられますし、
もっていれば、研究の初動段階は実にスムーズなものとな
卒業論文の段階でそこまで無理する必要はないでしょう。
のアカウントを取得した場合にはオンラインデータ
keio.jp
版されました。小杉泰・林佳世子・東長靖編﹃イスラーム
ベースの Brill Online
でオンライン版を利用できます。そこ
で は、 イ ス ラ ー ム 研 究 に 必 須 の 百 科 事 典 で あ る
﹁イスラーム学﹂、
﹁歴
The るでしょう。﹁道具類﹂のみならず、
史﹂、
﹁政治・経済・社会﹂、
﹁民族と宗教﹂などについて、
の
Encyclopaedia of Islam, 2nd ed., 11vols., Leiden, 1960 ― 2008
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せて参照しておいてください。
は別情報が多く含まれていますので、こちらも図書館で併
別巻、栄光教育文化研究所、一九九五年︶も歴史に関して
編﹃イスラーム研究ハンドブック﹄︵講座イスラーム世界
てきます。他方、これに先立つ三浦徹・東長靖・黒木英充
どっただろう、と何故か少々悔しい気持ちさえわき起こっ
ニュアル本が大学時代にあったならばどれだけ学習がはか
氏による詳説が収められています。こんなに中身の濃いマ
についても、本塾大学出身で筆者の先輩でもある保坂修司
本から得られます。また、関連のウェブサイトや電子媒体
各々さらに細かい分野に区切っての懇切丁寧な解説がこの
私の指導では、まず論文作成者の主体性を尊重してきまし
意味で、時代・地域・テーマの設定について、これまでの
生き生きとした作品には仕上がらないからです。そういう
わかない問題を取り上げたならば、学習意欲が高まらず、
と思います。当たり前のことですが、あまり知的に興味の
味を引かれる時代・地域・テーマであることが前提条件だ
います。まず何よりも、卒業論文の作成者にとって強く興
段に振りかぶらなくてもよいのではないかという気もして
ければならない、ということになりますが、そこまで大上
をより良く生きて行くために有効な過去への問い掛けでな
要な問題を取り上げる、あるいは、われわれが現在や未来
た。ただし、概論や概説にならないように、という点は強
調しておきたいと思います。時代・地域・テーマについて
ことが必要だと思います。﹁段々に﹂というのは、関連の
研究テーマの設定
ところで、卒業論文のテーマはどのように選べばよいの
一般書から入って、和文・英文の研究文献を広く調査し、
段々にうまく﹁絞り﹂を入れる、焦点を定めていくという
でしょう。この根本的な問題を置き去りにして、どんどん
中東・イスラーム世界史について、近年の高校教科書は
先行研究を読みながら、ということです。
ころだと思います。研究分野によって、指導の担当者によ
かなり詳しく取り上げるようにはなってきましたが、全般
具体的に述べてきましたが、実はここが微妙で、難しいと
って、様々な考え方があるでしょうが、私は経験的にだい
的な基礎知識は不足している場合が多いので、まずは一般
向けの佐藤次高編﹃西アジア史1
アラブ﹄︵新版世界各
たい次のように思っています。
テーマの設定にあたっては、人類の歴史を考える上で重
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国史
、山川出版
、山川出版社、二〇〇二年︶、永田雄三編﹃西アジ
ア史 イラン・トルコ﹄︵新版世界各国史
八
、
﹃講座イスラーム世界﹄全五
―六年︶
ることになります。そして、
﹃ 講 座 イ ス ラ ム ﹄ 全 四 巻︵ 筑
年、絶版︶、などの通史・概説書を読み込むことから始め
ス ラ ー ム の 世 界 史 ﹄ 全 三 巻︵ 講 談 社 現 代 新 書、 一 九 九 三
は、アラビア語、ペルシア語、トルコ語などの必ずしも習
められます。しかし、中東・イスラーム世界史の重要史料
ところの一次資料︵原典史料︶に広くあたることが次に求
定していくことになります。さらに、研究文献が依拠する
究論文・研究書を調べ、読み進める中で、研究テーマを限
こうした一般書を糸口に、前述のように和文・英文の研
原典史料(一次資料)と向き合う
九
、
﹃イスラー
―五年︶
得の容易でない﹁現地語﹂で書かれているものが中心とな
ム地域研究叢書﹄全八巻︵東京大学出版会、二〇〇三
巻︵栄光教育文化研究所、一九九四
摩書房、一九八五
〇
―
ム世界の人びと﹄全五巻︵東洋経済新報社、一九八四年︶
特にお勧めしたいのは、少し古いものですが、
﹃イスラ
見解を論証していくというのが、論文作成の一般的な道筋
学説史を批判的に検討し、一次資料の分析をもとに独自の
ている人はまれでしょう。当該テーマに関する先行研究、
目配りすべきです。
です。生業形態や暮らしに着目して、イスラーム世界の現
時代や地域によって様々ではありますが、一つの突破口
ですが、この分野に関しては一次資料の読解という段階で
巻もあります。そして、各巻の末尾に掲載されている座談
は、 ヨ ー ロ ッ パ 諸 語 で 書 か れ た、 ヨ ー ロ ッ パ 人 の 中 東 旅
在や過去の社会・文化について当時の代表的な研究者たち
会での参加者たちの自由奔放な発言の数々が特に注目され
行・滞在記録、外交史料などの活用です。また、イブン・
大きな壁が立ちはだかっているといった感じです。
ます。研究上のヒントを与えてくれるばかりでなく、成長
二
―〇〇二年︶のような﹁現地語﹂史料の翻
バットゥータの﹃大旅行記﹄全八巻︵家島彦一訳注、平凡
社、一九九六
期の学界に漲る精気を伝えていて価値があります。
が 平 明 に 論 じ た も の で、
﹁水上民﹂や﹁牧畜民﹂を扱った
ります。卒業論文の作成段階でそうした能力を充分に備え
五年︶などの講座・叢書類も問題の所在を探るために広く
社、二〇〇二年︶、佐藤次高・鈴木董・坂本勉編﹃新書イ
9
8
2
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で、十字軍時代の再検討を試みた力作がありました。一般
年歿︶のシリア語年代記の英訳書をじっくりと読み込ん
教会のカトリコスであったバル・ヘブラエウス︵一二八六
し前に私が指導を担当した通信教育課程の卒論に、シリア
英訳のある﹁現地語﹂史料は決して少なくありません。少
訳書を利用するのも一つの手です。中世から近現代まで、
九九年︺
ム世界の発展﹄︿岩波講座世界歴史
版世界各国史
應義塾大学出版会、二〇〇四年。﹃西アジア史Ⅰ
アラブ﹄︿新
得退学。主要業績
攻。一九九一年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取
︹はせべ
ふみひこ
慶 應 義 塾 大 学 文 学 部 教 授、 中 東 社 会 史 専
﹀︵共著︶岩波書店、一九
﹀︵共著︶山川出版社、二〇〇二年。﹃イスラー
﹃
︵編著︶慶
―中世環地中海圏都市の救貧﹄
にこうした方法は、研究文献のみに依拠した卒論と比べ、
文の執筆に少しでも役立つ箇所があれば幸いです。
引になってしまったような気もしますが、皆さんの卒業論
ム︵秩序がない︶﹂と表現することがあります。そんな手
エジプトについて、現地の口語で﹁マフィーシュ・ニザー
以上、思いつくままに述べてきました。私のよく訪れる
れることでしょう。
それまでに得られなかった貴重な研究体験として心に刻ま
て、英訳や和訳であっても、原典史料と格闘した日々は、
よ り 独 創 性 に 富 ん だ 成 果 に つ な が る と 思 わ れ ま す。 そ し
8
10
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