福島県史料情報 - 福島県歴史資料館

福島県歴史資料館
、
其ノ他』所収)
通水式の挙行に関する農商務省からの達(
『疏水式
平成28年(2016)6月
『福島県史料情報』第45号
「日本遺産」安積疏水に関する県庁文書について
このほど 文化庁が、安積疏水(「未来を拓いた『
本の水路』」)を「日本遺産( Japan Heritage
)」に認
定 し た 。 東 北 地 方 か ら は 初 めて の 選 出 と な る ( ほ か
三件と同時認定
安積疏水 は、
明 治十二 年( 一 八七 九 ) よ り同十五
)
。
年 に か け て 猪 苗 代 湖 か ら 現 在 の郡 山 市と そ の 周 辺 に
水 路 を 引 き 、 今 日 に 至 る 地 域 発展 の 礎 を築 い た事 業
で あ る 。 当 時 は 「 猪 苗代 湖 疏水 工 事 」 と 呼 ばれ 、最
初の国営農業水利事業として知られている。しかし、
も と も と は 福 島 県 に よ る 大 槻 原開 拓計 画 に 起 因し 、
そ の た め 県 庁 文 書に も 様々 な関 係 書 類が 残 され るこ
ととなった。
写 真 の 史 料 は 、 工 事 の 完 成 を 祝 して 開 成 山 で 盛 大
に開催され一
た通水式に関するもので、国(農商務省)
が県に、前もって当日の段取り(「告祭次第」「執行
順序」)を伝え 、「不都合無之様可取計」と達した公
文書である(「明治・大正期の福島県庁文書」一六八
六所収)
。なお、県は式典後の県内視察の手配も担当
して お り 、 同 じ 簿 冊 に は 政府 高官 たち の 旅程 表や 宿
所割なども綴られている。
だ が 、 こ の 通 水 式 を も っ て 、 す べ て の 事 業が 完 了
し たわ け で は な か っ た。 疏水 の維 持 管 理 には そ の後
も 多 く の 費 用 や 労 力 が 必要で あ り 、 業 務 は 県 や 民 間
( 水 利組 合や土 地 改良 区等)へも委ね られ 、様々な
人々が関わりながら現在も継続している。
今 回 の 「 日 本 遺 産 」 認定 に は 、 前述 の 疏水 工 事 だ
け で な く 、 そ の 実 現 に 奔 走 し た 人 々 や 疏水 に よ っ て
「ストーリー
も 含 ま れ る と いう 。 も ち ろ ん 、そ れ らに 関す る 史 料
も、
「明治・大正期の福島県庁文書」には豊富に残さ
れて お り 、 い ずれ 機 会を 設 けて 紹 介するこ とに した
い。
( 山田 英 明 )
江戸時代の
観月台ため池絵図
国見町のシンボ ルの一つに 観月 台
公 園 が 挙 げ ら れ る が 、園 内 の た め 池
は 、 人 々 の 生 活 を 支え て き た 欠 か せ
な い 存 在 で あ る 。『 国 見 町 史 』 所 収
の 元 禄 八 年 ( 一 六 九 五 )「 山 崎 村 絵
図 」 に は 、 観 月 台 た め 池と み ら れ る
三つの池が描かれている。また、延
享 四 年 ( 一 七 四 七 )「 陸 奥 国 伊 達 郡
藤 田 村 指 出 帳 」( 国 見 町 藤 田 区 有 文
)には、村内に「溜井三ツ
と あ り 、江 戸 中 期 に は 農 業 用 水 の た
め池として 利 用 されて い た。
当 館 に は 、 寛 政 四年 ( 一 七 九 二 )
十月、藤田 村名 主の次 郎作が、 同村
の 月 見台 ( 現 観月台 ) た め池 を 描い
た 「 月 見 台 溜 井 三 ヶ 所 絵 図 控 」( 前
出文書三三 九 )が収蔵 されて いる。
か んばつ
、
同年夏は旱魃で
秋に 桑 折代 官 所 役人に よる とみ られ
」
、
る 村 内 の 見 分 が 行わ れ た 。 そ の 際 、
池の岸が崩れ、泥土が流れ込んでい
た月 見台 のため池を 実見し、渇水対
策 の た め 改 修に 目 を つ け 、 こ の 絵 図
と 人足 見 積 帳 の 提 出 を 命 じ た 。
絵図は、右上が北にあたり、西か
ら 北 に 流れ る 西 根 上 堰 用 水 か ら 取 水
し た 上 溜 井 ・中 溜 井 ・ 下 溜 井 の 三 つ
の た め 池が 描 か れ て い る 。 凡 例 に よ
れ ば 、 緑 色 が 草 野、 赤 色 が 道 、 黄 色
が畑、青色が川を示す。そして、橙
色で示す部分は、池の岸が崩れて砂
利土 が 露わにな った 箇所、水色 は た
め池に泥土が流れ込んだ部分であ
る 。 そ のほ か 、 各 溜 井 に は 縦 横 の 大
き さ が 記 さ れ 、 上 溜 井の 東 に は 村 境
越 し の 山 崎 村 の 家屋 、 下 溜 井 の 南 西
に は 富 士 権 現が 描 か れ て い る 。 絵 図
と 共 に 提 出 し たと み ら れ る 人 足 見 積
帳 の 下 帳( 前出 文 書 三 三 八 ) に よ れ
ば、人足総計は 二 万八千九 百三十六
人 余 、 費 用 は 銭 一 貫 九 十 七 文 余と 試
算されている。
( 小 野 孝 太郎 )
二 十 四 輩順 拝 図 会
月見台溜井三ヶ所絵図控(部分)
(国見町藤田区有文書339)
第 45号
福島県史料情報
平 成 28年 (2016)6月
しょう し ん
土湯を訪れた 性 信上人
『 二 十 四 輩順 拝 図 会 』 は 、 享 和 三
年(一八〇三)春に前篇五巻が、文
化 六年 ( 一 八 〇 九 ) 十 月 に 後 篇 五 巻
が 出 版 さ れ 、 内 容は 浄 土 真 宗 の 有力
寺 院 と その 近 辺 の 名 所 図 会 で 、 合 計
十 冊 か らな っ て い る 。 作 者は 浄土 真
宗の 僧侶了貞で 、 挿絵は 竹 原春 泉斎
の 手 に な る 。 春 泉 斎 は 、 名 所図 会 を
得 意 と し た 竹原 春 朝 斎 の 子 息 に し て
門 人 で も あ る 。 二 十 四 輩と は 、 親 鸞
の直弟二十四人のことをいう。
『
』後篇一には
福島市の土湯に関わる興味深い記述
が載せられて いる。
鎌 倉 時 代 の 建 長 二年 ( 一 二 五 〇 )
、
て みる と
『二十四輩順拝図会』後篇一(山内英司氏寄贈文書138)
秋 のあ る 夜 、 二 十 四 輩 第 一 の 性 信は
次 の よ う な 不思 議 な 夢 を 見 た 。 一 人
の僧が 性 信の元を訪 れ 、 性信の 前世
しの ぶ
の 骨が 奥 州 信 夫 郡 土 湯 山 に あ り 、 五
根 一 株 の 松 が そ の 目 印 で あ る と 告げ
た。そこで性信は夢から覚め、奥州
で布教しようと長年考えていたの
で、この夢は因縁の導くものと確信
したのである。すぐに奥州に赴き、
土湯山に分け入ってその場所を探し
求 め た とこ ろ 、 一 つ の 塚 を 見 付 け 、
そ こ に は 霊 夢 の 通 り 五 根 一 株 の松 が
あ っ た 。 さ ら に 、 実 際に そこ を 掘っ
、
紛れもなく白骨が出てき
夢告の通りであった。性信は因縁あ
る地と確信し、ここ に一宇を営み、
法 得 寺 と い う 寺 を 造立 し 、 専 修 念 仏
を 広 め た ので あ っ た。 当 初 浄土 真宗
で あ っ た 法 得 寺 は 、 江戸 時 代 に は 臨
済宗妙心寺派の光徳寺と改められ
ど とうさん
た 。 そ の後 、 光 徳 寺 は 土 湯 山 興 徳 寺
( 福 島 市土 湯 温 泉 町 ) と 改 称 さ れ て
今日 に至って いる。な お、 遺骨を 掘
り出したと言われる場所には松ヶ窪
の遺跡碑が建てられている。
、 上 の 図 は 、 性 信が 土 湯 山 に 来 た 場
面を描 いたも ので ある 。中 央の 杖を
ついている老僧侶が性信、二人の若
い僧侶は下総国から随行してきた弟
子とみ られ る 。 ま た、 左 手 に鋤 を 持
っている者や、左手に鍬を持って右
手で松の根本を指さしている者は地
元 の 案 内 人 で あ ろ う 。 ( 渡 邉智 裕 )
檜枝岐村で捕獲された
「
乍恐御尋ニ付以書付奉申上候
(檜枝岐村文書487)
今から約一二〇 年程 前 の文 政三年
熊町」
( 一 八 二 〇 ) に 会津 白
郡古
組 檜 枝岐
村(南会津郡檜枝岐村)では、珍し
い「 白 熊 」 の 出 現を め ぐ って 騒 動が
起 き た 。 日 本 列 島 で の 熊 の 棲 息状 況
から、左の古文書で「白熊」と記さ
れて い る 熊 は ツ キ ノ ワ グマ の ア ル ビ
ノ と み ら れ る 。当 時 の 檜 枝 岐 村 は 、
第 四 回 会 津 藩 預 かり 支配 の 時 期 で 、
田島陣屋の管轄下にあ った。
文政三年五月、田 島陣屋は 檜枝岐
たい熊が捕獲されたらしいとの
村で白
風 聞に 接 し 、 檜 枝 岐村 名 主 で あ っ た
ぬい どの の すけ
星縫殿之助に対して速やかな事実確
認とその後の経過報告を求めたので
あ る 。 縫殿 之 助 の 子 息 が 世 間 話 と し
て 理 喜 之 助 に 白 い熊 の こ と を 話 し 、
こ れ を 理 喜 之 助 か ら 聞 い た阿 部 周 助
は猛獣で あ り
が 非 公 式に 口頭 で そ の 内 容 を 陣 屋 へ
伝えて い たが 、陣 屋 よ り事 実を 有 り
のま ま 書 面で 届け 出 る よう 指示 され
。
このため書面にて申し上げたが
ど じゃ
そ の 後 の 経 緯を 仲 附 駑 者 が 運 ぶ 便 に
て急ぎ報告するよう命じられたので
ある。沼田 街道檜枝岐口留番所の役
人 も 兼 ね た 縫殿 之 助 は 、 お お よ そ 次
のように経緯を報告している。
今年 の三 月 、 檜 枝岐 村 の 村 人が 、
当 村 内 の 山 中で 白 い 熊 を 発 見 し て 、
そ れ を 生 け 捕 り に し 、 餌 を 与 えて 飼
い置いていた。しかし、そもそも熊
、
人には全く馴れずに
昼夜を問わず荒々しく暴れ、田植え
、始まる農繁期も迫っていたので、
が
村で は こ れ 以 上 長 く 飼 い続 け る こ と
は 難 し いと 考 え る に 至 っ た 。 そ こ へ
会津郡楢原組倉谷村(南会津郡下郷
町栄富)の久七という者がやって来
て 、 白 い 熊 の 払 い下 げ を 希 望 し た の
で 、 売 り 払 っ たと こ ろ で あ る 。
こ の 白 い 熊 は 、 冬 眠 か ら 覚 めて 活
と始
にめ
よた
る矢先に生け捕りにされ
動をし
たとみられる。当 時熊は猟師 鉄炮な
くまのい
、で 捕 殺 さ れ 、 食 肉 ・熊 胆 ・ 毛 皮 に
ど
利用されていたが、生け捕りにされ
た 理 由 は 、 江戸 時 代 の 後 期 に 流行 し
た 見 せ 物 の 影 響 が あ る も のと 考 え ら
れ る 。 ま た 、突 然変 異 に よ る 白 化 し
た 動 物 の 出 現は 、 奇 瑞 を 表 す も の と
さ れ 、古 来 よ り時 の 政 権 や領 主 に 献
上されてきた。
(渡邉智裕)
ぼんしょう
幕末期の梵鐘の供出
嘉永六年(一八五三)のペリー来
航後、 国内 は 国 防 の意 識が 高ま り、
台場建設や西洋式軍艦の建造、西洋
砲 術 の 採用 な ど が 図 ら れ た 。 安 政 二
き し ょう ちゅ う ほ う
年(一八五五)三月には、毀 鐘 鋳 砲
だじょうかんぷ
の 太政 官 符発 布を 受け 、 幕 府が諸 藩
に寺 院の梵 鐘の供出を 命じ た。これ
は 、 梵 鐘 か ら 大 砲 ・小 銃 を 鋳 直 す こ
、国防を目的と掲げていた
伊達郡飯野村(福島市)五大院で
は 、安 政三 年 十 月 に 川 俣 代 官 所 から
の梵鐘供出の廻状を書写 している
( 五 大 院 文 書 一 六 九 )。 本 書 は 、 寺
が鐘の所有を申告する際の書式が記
されており、当該寺が本寺の場合と
と き の
末 寺 の 場 合 、 鐘が 半 鐘 の 場 合 と 時 之
かね
鐘の場 合の四つがあり、鐘 の直 径・
にし の
高 さ ・ 厚 さ を 報 告さ せ 、 料 紙 は 西 之
うち
内 紙 と 定 め ら れ た 。な お 、 半 鐘 は 供
出 対 象 か ら 除外 され 、 時 之 鐘 は 供 出
。
の判断を仰いだようである。
県内での梵鐘の報告例について
は 、 い ず れも 安 政三 年 、 伊 達 郡 藤 田
村 ( 国 見町 )村 役 人 か ら 桑 折 代 官 所
に宛て、大千寺・常楽院に梵鐘が有
る旨(国見町藤田区有文書四七四)、
信夫郡 上 野寺村 (福島 市) 村役 人か
ら 同 代 官 所 に 宛 て 、 大 林寺 ・武 隈 稲
荷 大 明神 ・明 和院に 梵 鐘 が 無 い 旨が
出されて いる( 武隈稲 荷神 社文 書三
一 九 )。 ま た 、 同 年 に 白 川 郡 下 石 井
村 ( 矢 祭 町 )養 福 院 ・ 泰 陽 寺 に 鐘 が
無 い 旨 、 同 村 正 覚 院 には 法 要 に 用 い
る鐘が 有り 、供 出 の判断を 仰ぐ 旨も
そ れ ぞ れ 塙 代官 所に 提 出 さ れ た ( 和
田 正良 家 文 書 四 八 八 ― 四 九 二
各 地 で 梵 鐘 の 有 無 が 報 告)
さ
。れ る
中 、 安 政 三 年 、 伊 達 郡 石田 村 ( 伊 達
市 )康 學寺 ・ 普光 寺 、村 役 人 一 同 、
檀 家 総 代が 、 時 之 鐘 の 供 出 免 除 を 願
い出ている(佐々木敏治家文書一
五 )。 山 陰 谷 間 で の 農 業 と 養 蚕 業 で
暮 ら し た 石 田 村 で は 、労 働 力 を 出 稼
ぎに頼っており、時間の把握が労働
管 理 に 不 可 欠 の た め 、 歎 願 が 行わ れ
た の で あ っ た 。 さら には 、 蚕 の 生 育
に時間の重要性を認識していた可能
性も あ る 。 梵 鐘 供 出 の 政策 は 、 全 国
で 徹 底 さ れ ず に 終わ っ た が 、 生 活 へ
の 影 響 か ら の 反 発も 少 な く な か っ た
の で は な い だ ろ う か 。( 小 野 孝 太 郎 )
乍恐以書付奉願上候(梵鐘御引上御差除願)
(部分)
(佐々木敏治家文書15)
第 45号
福島県史料情報
平 成 28年 (2016)6月
とコロボックル説の解説が 加えら
平成二八年度行事予定
れ 、「 年 代 の 新 古 」 で は 資 料 の 年 代
(
を考察するための石器時代・青銅器
時代・鉄器時代の三時 代区分法 に基
一、展示公 開
づ く 考 え 方 を紹 介し 、 日 本 は 必 ず し
「 名 所図 会 の 世界 」
も こ の 区 分 法 が 当て は ま ら な い 可 能
江 戸 時 代 に お け る 旅 の ガ イド ブ ッ
性 ま で 指 摘 し て い る 。 ま た 、「 分 布
クでもある名所図会の展示です。
の 範 囲 」「 遺 物 の 種 類 」 で は 石 器 の
【 会 期 】 平 成 二 八 年 六 月 三〇 日ま で
分類法と関東以北に資料の多いこと
「 描 か れ た 江戸 時 代 の 伊達 郡 」
を指摘するなど、いずれも当時の学
「 奥 州 道 中 絵 図 」や 「 信 達 両郡 絵
問レベルと しては優れたも のであ
図 」、 伊 達 郡 内 の 村 絵 図 な ど 、 江 戸
る 。 そ れ ら は 、 大 学 講 義 あ る いは 明
平本
成考
二八
~の
平概
成二
時月
代)に描かれた伊達郡の絵図を前期
治期 発行 の「日
古年
学七
」月等
説九年三
・後 期 に 分 けて 展 示 し ます 。
書や「 東 京 人類 学 会雑 誌」 等を 介し
【会期】平成二八年七月一六日~九
た 知 識 と 予 想さ れ 、 当 時 の 歴 史 学 問
月 四 日 ( 八 月 一 ○ 日 展 示 替え の た め
を学 ぶ社会環境を知る上で 興味深 い
展示室休 室 、八 月 一一 日よ り後 期)
も のが あ る 。
【 解 説 会】 平 成 二 八 年 七 月 一 六 日 ・
な お 、 石 剣 出 土 地は 現 在 の 遺 跡 地
二 三 日 ・ 八 月 二 〇 日 ・九 月 三 日
図 か らす る と 、 浪 江 町 北 幾 世 橋 字 西
午後 一 時 か ら 一 時 間 程 度 。
原 の 百 間 沢 遺跡 と 考 え ら れ 、 町 史 に
「 新公 開 史 料 展 」
おいても縄文時代と目される遺跡と
して紹介されて いる。 ( 安田稔)
平 成 二 七 年 度 に 刊 行 し た 収蔵 資 料
目録四七集に収録した資料の中か
ら、県北地方の資料を中心に代表的
な 資 料 を 展 示 しま す 。
【 会 期】 平 成 二 八年 九 月 一 七 日 ~ 一
一月二 三日
【 解説 会 】 平 成 二 八年 九 月 一 七 日 ・
一○ 月二 二日
午後 一 時 か ら 一 時 間 程 度 。
二、古文書講座
当 館収蔵 の 早 田 傳 之 助文 書の 半 田
銀 山 経 営 に 関す る 資 料 を テ キ ス ト に
公益財団法人 福島県文化振興財団
〒960-8116 福島市春日町5-54
福島県歴史資料館
URL http://www.history-archives.fks.ed.jp/
TEL 024-534-9193 FAX 024-534-9195
E-mail [email protected]
用 い 、 計 四 回 の 講 座 を 開 催 しま す 。
【 日 程 】 第 一 回平 成 二 八年 七 月 二 日
・ 第 二 回 七 月 三 ○ 日 ・第 三 回 八 月 二
○ 日 ・ 第 四 回九 月 一 ○ 日
【 会 場 等】 と う ほ う ・ み ん な の 文 化
セ ン ター ( 県 文 化 セ ン タ ー ) 二 階 会
議 室 。 資 料 代千 円。 時 間 は い ず れ も
午 前 一 〇 時 から 一 二 時 の 二 時 間 。
※事前申し込みが必要です。
三、フィルム上映会
日本 の伝 統文 化に関す る 作品を 上
映 。 会 場 は と う ほ う ・ み んな の 文 化
セン ター (県文 化 セ ン ター )視 聴覚
室 。 時 間 は 午後 一 時 か ら 。 参 加 費 は
無料。
【日程】第二回平成 二八年八月 二七
日 ・ 第 三 回一 ○ 月 一 五 日
四、地域史研究講習会
内 容は 決 ま り 次 第 当 館 ホ ー ム ペー
ジでお知らせします。
【 日 程 】 平 成 二 八年 一 二 月 一 〇 日 。
いわき市での開催を予定。
行
集・発
編
平成28年6月25日
第45号
東宮殿下に献上された
考古資料
年
明 治 四 十 一 年 ( 一 九 〇 八 ) 初秋 、
明 宮 嘉 仁 親 王 ( 後 の 大 正 天 皇 )が 福
島 県 を 行啓 さ れ た 際 の 資 料 が 、 県 庁
文書の「行啓事務書類」として歴史
資 料 館 に 収 蔵 さ れ て いる 。 そ の中 に
は 行 啓 に 合 わ せて 県 に 提 出 さ れ た 様
々 な 県 産 品 の「 献上 願 」 が あ り 、 そ
の 中 に 見 出 さ れ た 考古 資 料 を こ こ で
紹 介 し た い。
献 上 希 望 の 考 古 資 料 は 明 治三 十 六
年 に 双 葉 郡 北 幾 世 橋 村 大字 西 原 の 畑
地から耕作時に出土した石剣一口で
あ り 、「 献 上 願 」 提 出 者 は 相 馬 郡 原
町大字 南新田在住の宗 教団体会長の
広 橋 連 城 な る 人物 で あ る 。
「 献 上 願 」に は 「本 品の 略 歴 史」
と 題す る 連 城 氏 の 手 に よ る 解 説 書 が
添付されており、それによると、石
剣 は 図 面が 無 い た め 形 状 や 大 き さ は
知れないものの、破損個所の無い完
品 で あ るこ と が 述 べ ら れ 、 ま た 、 同
地からは 石器・ 骨角器・土 器類も出
土し、その一部は東京帝国大学に所
蔵されている旨が記されている。
解説 書は さら に 石 器 使 用 者 」
「
代の新古」「分布の範囲」「遺物の種
」
の 項 目 に 分 けて 記 述 が 進 め ら れ
「石器使用者」では当時日本人起源
を 考え る 上 で 論 争 の あ っ た ア イ ヌ 説
「
福島県史料情報
第 45号
福島県史料情報
平 成 28年 (2016)6月
行啓事務書類(2) 明治41年
(明治・大正期の福島県庁文書548)